第12回
〜 映画史に輝く子役たち・・・その光と影 〜
スクリーン憧子

前回「がんばれ老優たち」で映画界を支える老優たちに登場してもらった。しかし映画は老優の他に清新・清純な若者、中でも小さな子供たちが重要な役割を担うことが多い。そしてその姿は映画の歴史の中に刻まれ永遠の光を放って人々の心から消えることはない。今回はこの子役たちが出演した映画の中で果たした役割と映画史の中に輝いている姿を思い出してみたい。そしてそのかわいい名優たちがその後どんな活動をしたのか、あるいは不幸にして活躍を閉ざすことになったのかなどを述べたいと思う。

1. ブリジット・フォッセー(フランス映画:禁じられた遊び-1952年)

世界の長い映画史の中で子役という役割の重要さをこれほど大きく明確に表現してくれたのはブリジット・フォッセーだろう。今も語り継がれる反戦映画の名作「禁じられた遊び」のポーレット役で彼女が果たした役割の大きさは計り知れない。製作から70年近い年月を経てもなおあの孤児ポーレットは世界の人たちの心に切なく美しく生きている。
戦争孤児となった世界の無数の子供の代表であるが如く不安と恐怖と寂しさを体現し、子供らしい愛くるしさを時折見せながら初めて出演する映画で圧倒的な存在感を発揮した。
大戦のさなかパリ近郊の農村を逃げ惑う避難民の群れをドイツ機が襲撃し5才の幼いポーレットは両親と愛犬を失ってしまう。愛犬の遺体を抱いて泣きながらさまよっていた彼女は近くに住むミシェルという11才の少年と出会いその家の世話を受けることになった。
ミシェルは7人の家族がいる農家の末っ子である。隣家とは不仲で、共に素朴ながら、頑固で少々野卑なごく普通の農家だがその両家のいさかいを背景に織り込みながら物語が描かれていく。
まだ神の存在や祈りの仕方も知らないポーレットに牧師やミシェルたちが祈りの言葉を教えるシーンはこの映画の大きな縦糸になっている。
ミシェルとポーレットの二人は亡くなった愛犬の墓を人目につかぬ水車小屋の中に造った。密かに造った小さな墓だったが一人では寂しかろうと亡くなった小動物たちの墓を少しづつ増やし動物たちの墓地になっていく。やがて神を表わす十字架も必要だと考え、だんだん大きく形のいい十字架が欲しくなると家の中や実際の墓地からいくつかの十字架を盗んできて飾ったことが「禁じられた遊び」の意味するところである。
ポーレットはミシェルと一緒に動物の墓を作りながら祈りの言葉や生活の中の宗教を学びながら暮らしていく。彼女の動作や表情の隅々にあどけなさと共に時には高貴な雰囲気を醸しだす場面がある。これはブリジット・フォッセーという俳優に備わった天性のものであろう。ルネ・クレマン監督は約1000人の候補の中から選んでおり彼女はこのフランス映画の名監督の期待に十分応えているといえる。
ミシェルがポーレットに祈りの言葉を教えポーレットが懸命に覚えようとしてたどたどしい口調で繰り返すシーンは微笑ましく美しく、この映画には幼い子供の世界に息づく宗教が太い骨格になっているのが感じられた。
ミシェルの両親や家族は一時はポーレットを養女にして家に迎えようとミシェルに約束し、ミシェルもそのためなら叱られることがあっても辛いことがあっても耐えていった。まだ幼く人見知りをするポーレットだがミシェルとは心から信頼しあうようになっていった。
しかし戦災孤児は国が保護することになっており、ポーレットも警察の調べを受け赤十字の施設へ移ることになった。その迎えが来たときミシェルの家族は当然として受け入れるが、ポーレットを引き取る約束を守らなかった家族をミシェルは罵倒する。二人だけの秘密の場所に作っていた動物の墓地に駆け込むと手当たり次第に壊し十字架を抜いてはたたきつけた。
ラストシーンで孤児院に引き取られていくとき戦時の混雑した駅の待合室で世話してくれる修道女を見つめるポーレットの表情と瞳はすべての戦争孤児たちの不安、恐怖、絶望を一身に表現し映画史の中でも特筆すべき場面である。雑踏の中で聞こえた「ミシェル」という言葉にハッとして立ち上がりミシェルの姿を探し、「ママ、ママ・・」と泣きながら母親に似た後姿の女性を追いかけるラストシーンに全世界の観客は涙した。
彼女は5年後、1957年に「ハッピーロード」というフランスを舞台にしたアメリカ映画に子役で出演したがここで一旦引退して学業に専念した。しかし彼女の名子役としての名声は広く強く残っており多くの人の復帰を願う声に押され20才の時大人の女優として映画へのカムバックを果たす。その後の作品は「さらば友よ(1968年)」でアラン・ドロンと共演した作品を含め1989年までに10作を超える作品に出演したことを今回知ることが出来た。ブリジット・フォッセー、今74才、健在であるのが嬉しい。
この映画はもう一つ素晴らしいものを世に送った。音楽である。全編に流れる哀切のギター演奏は物語に重厚な効果を与え、ギター奏者ナルシソ・イエペスとこの名曲を紹介した。映画を観た昭和29年(1954年)以来数十年経った今でもこの曲には魅了され胸が熱くなる。
最後に、ミシェルを演じたジョルジュ・プージュリーも名演でこの作品の重要な役割を担った。急に家族の一員になったポーレットに兄のような愛情を抱き一緒に暮らすため懸命の擁護をして、ポーレットが心から信頼し頼りにしたが最後は大人の都合に裏切られてしまう。ミシェル役を見事に演じ映画の重要な軸になった。
成長しフランス映画の名作「死刑台のエレベーター」にも登場しており、その後は主にTVで活躍したが60才で没した。

2. ブランドン・デ・ワイルド(アメリカ映画:シェーン-1953年)

ブランドン・デ・ワイルドは西部劇の名作「シェーン」に子供とは思えない名演で登場し今なお語り継がれるこの作品の詩情を醸し出す重要な役割を果たしている。
西部劇の中でも傑出した評価と人気を持つこの作品はアメリカ開拓時代の農場経営と牧場経営が同じ土地では両立しない宿命から双方が対立を深めていく姿がワイオミングの雄大な景観を背景にして描かれた作品である。
「陽のあたる場所」、「アンネの日記」など多くの名作を手掛けた社会派監督のジョージ・スティーブンスは生涯たった一作しか作らなかったこの西部劇で開拓史の背景を見事に描き、構成することによって通常の西部劇とは一線を画した作品を作り上げている。
腕力に勝る牧場側は強引に農民たちをねじ伏せようと考え殺し屋まで雇ってきて最早平穏な解決は望めなくなり最後の手段はガンマン同士の決斗にならざるを得なくなるがここでアラン・ラッド畢生の名演で争いは終結を迎える。
自分がこの地に残るべきではないと考え去っていくシェーンだがこのラストシーンの有名な「シェーン、カムバック!」を叫ぶのが少年ジョーイを演じたブランドン・デ・ワイルドである。
映画の始まりから農家の少年ジョーイにとって流れ者シェーンは憧れであり本来なら泊まるはずはなかった家にジョーイの強い希望が両親を促した。
このジョーイとシェーンとの友情と交流が本来は殺伐とした対立の舞台に暖かい世界を作り上げ最後の決斗の場面で危機一髪の窮地を救うことにもなった。
少年の純真な思いがこのブランドン・デ・ワイルドによって見事に表現されることで西部劇に深みと共感を与えてくれたのであるが、映画の冒頭と最後にシェーンがジョーイに語りかける場面がある。短い言葉だが人間の生き方を語りジョーイを子供でなく一人前の人間として対峙する姿勢を監督は表わした。この作品の好演によってブランドン・デ・ワイルドはその年のアカデミー助演男優賞にノミネートされるほどの高い評価を受けている。
彼は「シェーン」のあと「夜の道」(1957年)でジェームズ・スチュアートと「ハッド」(1963年)でポール・ニューマンと共演するなど活躍したが1972年自ら運転する車の事故により急死した。30才の若さである。

3. ジュディ・ガーランド(アメリカ映画:オズの魔法使い-1939年)

既に子役という域を脱する17才の年齢で出演したジュディ・ガーランドを一躍映画界のトップスターに押し上げた名作ファンタジー「オズの魔法使い」(1939年)も映画史に残る名子役の存在なくしては語れない作品である。
私はこれまで「オズの魔法使い」はジュディ・ガーランドのデビュー作品と勘違いしていたが今回発表するにあたり調べたところ、なんと第8作目の作品が「オズの魔法使い」だったと知った。
芸能一家の三人姉妹の末娘として生まれ幼児から舞台に立っていた彼女は1935年にMGMと契約し1936年にはすでに14才で映画デビューを果たしている。1937年から同世代の男優ミッキー・ルーニーとの共演で始まった明朗な青春物は人気を博し1939年の「オズの魔法使い」の前後に4作ほど制作されている。
「オズの魔法使い」の主役となるドロシー役は当初は当時の人気スター、シャーリー・テンプルの予定だったが映画会社同士の都合で急にジュディ・ガーランドに大役が廻ってしかもこれが大ヒットとなり彼女の名を不動にし、この映画でアカデミー子役賞を受賞するという大活躍をやってしまった。
しかし当時の映画界は作品の制作のためなら何でもやってしまう世界でもあった。1938年のピーク時に彼女は3本の映画の掛け持ちを要求されていたが、子供の労働条件や労働環境などは論外、無視、撮影日程のみが最優先だった。
やや太り気味だった彼女は減量を命じられ十分食べることも禁止、スケジュールの都合で真夜中の撮影時には、眠さを抑えるための覚せい剤を使用、都合の良い時に眠らせるためには睡眠薬使用などしょっちゅうでその後の彼女が最後まで薬物依存や精神障害に悩まされる原因は皮肉にも彼女が名を成した映画の作成過程で植え込まれていたことになる。
実母は強力なステージママとして動いており良くも悪くも彼女の将来の光と影を作る役を担っていた。
彼女の生涯をテーマにした伝記映画「ジュディ」が作成、公開された。波乱に富んだ人生が名優レネー・ゼルウィガー(「シカゴ(2002年)」などで好演)の迫真の演技で描かれている。映画人としてのジュディを語るとき「オズの魔法使い」前後までの子役時代だけでなく波乱に富んだ人生とスクリーンでの活動を述べなければ十分とは言えない。子役の後のジュディの姿を少し書かせていただくことを一言お断りしたい。
この作品「ジュディ」は彼女の最後の公演となった1968年ロンドンでの舞台を中心にして少女時代の「オズの魔法使い」当時のエピソードが回想され、重ね合わせるという方式で構成されており、「オズの魔法使い」から1968年のロンドン公演の間の出演作品を描いてないのには不満が残った。
フレッド・アステアと共演した「イースターパレード(1948年)」やジェームズ・メイソンとの共演「スター誕生(1954年)」などは彼女の作品を語る上で不可欠の作品である。特に「スター誕生」は米映画界の普遍のテーマとして1937年から2018年にかけ同じ題名で4回も繰り返し作成されており、この1954年のジュディ・ガーランド主演作品が映画界でも最高の評価が与えられていた。
精神的にも肉体的にも常に限界の彼女はこの作品によって私生活に対する世の非難を見返してやろうと命がけで取り組んでいたのは間違いない。
手ごたえを十分感じアカデミー主演女優賞受賞を信じ渇望していた。映画界も同じであったと伝えられている。しかし不運にも結果は大方の“ジュディ確実”の予想を裏切るものであった。当時の所属会社ワーナー・ブラザーズ社とのトラブルも原因だったと言われている。
失意の彼女はさらに精神、肉体の悪化につながる生活を続け自殺未遂事件も起こしている。この屈指の歌唱力と踊りの才能と不屈の役者魂を持った女優の波乱の人生の中で最も同情を感じる出来事であった。7年後「ニュルンベルグ裁判(1961年)」に出演、演技力が評価されアカデミー助演女優賞にノミネートされたことは救いだったが、前述のロンドン公演の半年後1969年6月ロンドンで客死、47才だった。

4. 大人の俳優へ成長していった子役たち

⑴ ナタリー・ウッド(アメリカ:1938~1981)
今でもクリスマスの定番として鑑賞される映画「34丁目の奇跡(1947年)」に9才で出演後、ジェームズ・ディーンと共演の「理由なき反抗(1955年)」、に17才で、ジョン・フォード監督の西部劇名作「捜索者(1956年)」に18才で出演し米映画での地位を高めた。代表作はエリア・カザン監督「草原の輝き(1961年)」とロバート・ワイズ監督「ウェストサイド物語(1961年)」、共に青春映画の傑作とされる大作に23才で連続出演し米国映画界を代表する存在となる。個人としては数度の結婚、離婚を重ね1981年43才で不審な事故死を遂げている。しかし青春映画での輝きは今も鮮烈である。

⑵ リチャード・ベイマー(アメリカ:1938~)
ビットリオ・デ・シーカ監督の名作でジェニファー・ジョーンズ、モンゴメリー・クリフト主演の「終着駅(1953年)」に14才でかなり重要な役を持ち子役デビュー。以後「アンネの日記(1959年)」、「ウェストサイド物語(1961年)」など青春時代を描く作品に出演が多く重要な役割で印象も強い。以後は俳優を離れ社会活動を行った後復帰しテレビ人気シリーズにも出演、自ら監督として短編映画の数作を作成した実績もある。81才健在。

⑶ ディーン・ストックウェル(アメリカ:1936~)
「紳士協定」でグレゴリー・ペックと共演し子役として高い評価を受けゴールデングローブ賞を受賞した。「息子と恋人(1960年)」に25才で主役出演後は子役の伸び悩みの例に従っていくが逆に強烈さのない個性がその後のテレビや脇役としての存在感を高め息の長い俳優になっている。2009年まで映画、テレビの出演も多く知られ、健在である。

⑷ クロード・ジャーマン・ジュニア
「仔鹿物語(1946年)」でグレゴリー・ペックやジェーン・ワイマンという大俳優を両親に、フロリダの開拓時代を生きる開拓者一家の息子をひたむきで躍動感あふれる姿で演じ、アカデミー特別賞を受賞するほどの高い評価を与えられた。
父親が狩猟で得た母鹿の遺児を心から可愛がるが成長すると畑の作物を荒らすためやむを得ず殺さざるを得なくなる。生き物に対する愛情とそれを受け入れられない相克の中、耐えきれず家を飛び出していく。
現実の世界で経験と学習を重ね成長していく姿はこの子役の個性無しでは表現出来なかったほど強い印象を与え児童文学としても名高い原典に更なる映像の価値を与えた。もう息子は死んでいるとあきらめていた両親のもとに帰還するラストは感動的である。
出演数は少なくこの後ジョン・フォードの名作西部劇「リオグランデの砦(1950年)」に出演したが父親役のジョン・ウェインと同じ位まで背が伸びており僅か4年の間の成長はファンを驚かせ、喜ばせた。その後映画界から去っているが現在85才、健在である。

5. 活動停止、低迷、破綻例

期待され、活躍した子役が力を付け成長していく姿は頼もしく嬉しいが若年での名声獲得やこの世界独特の環境に影響され挫折する例も多数あり「子役の伸び悩み」という言葉通り清新さを保つのは難しく心情的に少数の紹介にとどめたい。

⑴ マコーレー・カルキン(ホームアローン1.2ほか)
1990年に第1作、1993年に第2作が公開された「ホームアローン」、1992年出演の「マイガール」も世界的な大ヒットとなり彼は当時世界一有名な子役、世界一高額ギャラの子役としてギネスブックに認定されるほどの人気を得ていた。しかし不幸にして両親と映画会社のトラブルなどで活動が狭まり麻薬に手を出したりで混迷し一時は死亡も伝えられる程だったが回復し俳優活動を再開の報も聞かれるが既に40才。

⑵ ブラッド・レンフロー(依頼人、マイフレンドフォーエバーほか)
12才でデビューした「依頼人(1994年)」はトミー・リー・ジョーンズ、スーザン・サランドンという芸達者な俳優の間での初出演とは思えない落ち着いた表現で一躍映画界の注目を浴び、連続して「マイフレンドフォーエバー」、「トムソーヤーの冒険」に出演し喝采を浴びた。端麗な容姿で大いに活躍を期待され、ほぼ年1本のペースで出演するが2008年急死した。25才。薬物中毒とされ既にデビュー時の雰囲気はなく体型も崩れていた。

⑶ リバー・フェニックス(スタンド・バイ・ミーほか)
青春映画の金字塔とされる「スタンド・バイ・ミー(1986年)」でデビュー、一躍人気を得る。幼少時親の影響でカルト教集団に入り生活していた環境から思考や生活には常人と異なるところもありそれがまた個性となって熱烈なファンを魅了した。1988年には代表作となる「旅立ちの時」に出演しアカデミー助演男優賞にノミネートされる活躍を見せ1993年までに多数出演、期待されたがこの年麻薬の多量摂取で急死した。23才だった。

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