今回はアメリカ映画のアニメーション分野でその言葉通り絵に生命を吹き込み、自然界の生命の記録・報道の先駆けとなり世界中を楽しませ、励まし続け、さらに夢の園テーマパークを生涯かけて作り上げ、今なお世界中に夢を与え続けているウォルト・ディズニーの作品、作風を見ていきたい。私自身が観て最も影響を受けた作品を中心にウォルト・ディズニーの姿を追ってみようと思う。
◆「海底2万哩」(1954年製作、:原題:20,000 Leagues Under the Sea)
平成28年7月のことである。東京ディズニーシーに行く機会があった。アメリカ西海岸のトーランス市という姉妹都市の学生8名と成人リーダーを連れレクレーションの一環として訪れた。30年ほど前に当時小学生だった自分の子供たちを連れて何回か行って以来久しぶりのことである。当時はまだディズニーシーはなくディズニーランドだけだった。さすがに昔のような興味はなくただ役目としてついていくという感じであまり期待はしていなかった。
ところが・・・港と思しき入り江に停泊している船を見て驚いた。「あれはもしや、潜水艦ノーチラス号ではないか?」もう半世紀以上も前に映画「海底二万哩」を観て友人たちも私も魂を奪われるほど強烈な影響を受けた懐かしい映画がまざまざとよみがえってきたのである。
まさかあの映画に登場したノーチラス号を東京ディズニーシーまで運んできたわけではないだろう。しかしその姿は半世紀以上もの時間の経過を感じさせないほどあの時のままの姿で瞬時に記憶がよみがえった。
最早神話的とさえなった感があるジュール・ベルヌの伝説の空想科学の名作「海底2万哩」をウォルト・ディズニーが彼なりの解釈と大胆な演出・構成を行い映像美と臨場感溢れる映像として1954年(昭和29年)に制作したものである。
冒頭のシーンで未知の物体、深海の巨大な怪物が眼から強烈な光線を放ちながら暗い海面を切り裂いて表れるシーンはまさに息をのむ思いだった。これが潜水艦ノーチラス号が最初に登場するシーンである。
その完成度の高さは観る者をまさに同時体験させ、魅了し尽し、さらに近代文明と人間への問いかけもおこなうという格調高い素晴らしいSF映画として完成され公開されていた。
中学生だった我々はしばし忘我の世界にはいり込みノーチラス号の乗組員と共に海底牧場の実りに感謝し収穫を喜ぶ気持ちを共有した。幼年期の我々の感受性があったにしてもそれ以上にこの映画の創作に心血を注いだディズニーの創作能力に負うものが大きい。
観客を魅了し尽くすシーンが随所に見られた。特に海底のシーンは秀逸でノーチラス号から乗員が海底に向かって揺らめきながら降下し海底に到達するシーン、そして無重力に近い海底を一歩一歩、前傾姿勢でゆっくり歩行するシーン、ほとんど無音の中で展開されるシーンはあたかも自分自身が海中にいるような共感と一種連帯感さえ感じるようなそれまでの映画の世界で見られない感動的な体験をさせた映画だった。
ネモ艦長が悪への挑戦と懲罰を自らの正義と信じ、任じつつも関係ない一般市民を巻き添えの犠牲にしてしまうという負の結果を後悔し、それを振り払うように一人、部屋に備え付けた小型パイプオルガンに向かって慙愧の念を叩きつけるように奏でていたのはバッハの「トッカータとフーガ」だった。ネモ艦長の苦悩の表情と共にその旋律に心奪われるものがあり、私に音楽への道を開いてくれた映画でもあった。以来音楽への憧憬は止むことなく続きその中でバッハは今も私の音楽の軸であり続ける。
大イカのノーチラス号襲撃シーンも素晴らしい映像だった。CG技術も未だ無かったころ大イカがリアルに描かれた。潜水艦の入り口から足を侵入させるシーンや、一度は強烈な電気で振り払った大イカがまた吸い付くように接近してくるシーン、ネモ艦長を脚で巻きつけ振り回すシーン、潜水艦ノーチラス号をねじ伏せるような力を持つ巨大な怪物が映像として存在していた。特殊撮影などを意識させない実像がそこに存在していたのである。
ネモ艦長の注意を軽視して島に上陸したカーク・ダグラスが人食い人種の襲撃を受け必死に逃げるシーンでは観客である自分も後ろから投げられた槍が突き刺さるのではないかという恐怖さえ感じた。
ネモ艦長の言葉「地上には飢えと恐怖がある。人間は不条理な法をふりかざし衝突しては互いを切り刻んでいる。だが海を数メートル潜れば悪魔の支配は追いかけてこない。真に独立した地はこの海底だけ。私は自由だ」この理念があったから我々観客は心の底までこの映画に没入し、同化することが出来た・・・と考える。
私にとってこの映画がなぜこれほど強い影響力を持ち魅力あふれる作品だったか調べたくなり海洋SF小説としてのジュール・ベルヌの原作も調べてみた。
① 原作は1870年に書かれているが作者ヴェルヌは何物にもとらわれずその時期の最先端の科学・技術を余すところなく吸収しその膨大な知識と豊かな想像力を基盤にしてこの小説を完成させている。その知識は全編を通じて披歴されていて海洋、地質、物質成分、生物、地球の生成・構造など物的知識の豊富さとさらに魚類は勿論海洋植物、海流、気象、水質、波浪など応用的に拡大しそれに歴史の広範な知識が各場面に見事に適用されている。
まだ日本が明治に入ったころの著作にも拘らずクロシオやサンショウウオの名前が登場しているのに驚嘆した。多種の魚類がノーチラス号から見える光景として描写され小説の読者は想像力をかきたてられたことだろうがディズニーはこの視覚描写をむしろ海底での生物との共存、共感の形で描く。
② はるか未来の潜水艦や当時全く存在しなかった新エネルギーを科学的根拠を基にして創出した。1954年の映画ではノーチラス号のエネルギーは原子力だと暗示しているがさすがに1870年の原作では原子力は未だ未知の分野のためジュール・ベルヌは電気を最先端のノーチラス号の動力と位置付け、電力の生成は海中に豊富に含まれる塩化ナトリュームと水銀を混合させた電池という概念で海中の豊富な原料がノーチラス号の継続運転を可能にさせるとして、これ以上は秘密だとあいまいな表現を行っている。しかしディズニーの留まることを知らない想像力にかかれば原子力を登場させ曖昧さは一挙に解決した。ディズニー自身が言う通り「人を喜ばせ、感動させる。そして自分も感動する。」という明快な哲学がベルヌの古典を現代に生き生きと芽吹かせたのである。
③ そして俳優たちの個性と演技にも心奪われる。主演のネモ艦長を演じるジェームズ・メイソンは複雑な心理表現や、理念と相反する現実のはざ間で苦悩する人物を演じさせたら右に出る者がいない、まさしくネモの化身だった。映画のタイトルにはカーク・ダグラスがトップで出ており、当時活劇派として人気を博した彼がこの映画でそのキャラを発揮するように期待しているところがある。しかし私を始め観客が共感したのは派手なアクションを見せた銛打ちネッド(カーク・ダグラス)より悩み苦しむネモ(ジェームズ・メイソン)だった。人物描写や構成は原作と映画との相違があるが、ウォルト・ディズニーの優れた創作能力は制限された映画の時間枠に原作とは異なりながらも新しい魅力を創出しているのが感じられる。それだけウォルト・ディズニーは人を喜ばせ、感激させ、鼓舞、激励し楽しませる天才的能力の持ち主であったのである。
この能力は彼が後に生涯の集大成として全力を注ぐディズニーランドに投影されている。このことは後で述べたい。
◆「白雪姫」(1937年作、原題:Snow White and the Seven Dwarfs: 白雪姫と七人の小人)」
ディズニーはそれまでただ余興の世界だったアニメにドラマ性、人間の理知と希望を取入れた。映画史上に残る、ストーリーを持った世界初の長編アニメーション映画の第一作である。
先ごろNHKTVでディズニーの生涯が4回連続の特集で報道された。白雪姫は初期の大ヒットなので早い回で報じられた。白雪姫が毒リンゴをかじり死んでしまうがその時の葬送シーンで観客は泣いていたという従来のアニメではありえない光景が紹介された。すぐDVDで鑑賞してみた。死してベッドに横たわる白雪姫、七人の小人たちは一人一人姫に別れを告げる。静寂と哀悼と荘厳の世界に、今でもやはりこみ上げるものがあった。
◆「ピノキオ」(1940年2月公開、原題:Pinocchio)
木の操り人形が人間の子になることを願い苦労を重ねる長編アニメであるが数多くの誘惑、虚偽、子供の世界への容赦ない迫害など暗部をも描写していく姿はディズニーアニメが子供を対象とする枠組みを超え社会全域にその対象を拡げていった役割を感じさせる。
◆「ファンタジア」(1940年公開、原題:Fantasia)
制作者としてのディズニー、名指揮者ストコフスキーがフィラデルフィア管弦楽団を指揮する古典の名曲8作品を音楽とアニメ映像で表現し協働させようとした最初の試みだった。音を視覚で形象するという困難に挑戦した勇気ある作品だが、やはり映像化の困難さは否めないと思われる。でも楽器がそれぞれに持つ音質の印象を抽象画的に表現する試みには感服した。楽器ごとの音質を具象しているのに感心する。だが具体的な動物を登場させると印象が定型化してしまうので、サイケデリックかつ抽象画風を用いたものに共感を感じた。後に同様の試みは無かったと思うが、まだアニメの地位・認知度が未定の時こういう企画を創出し挑んでいったディズニーの精神に感嘆する。
◆「砂漠は生きている」(1953年作、原題:The Living Desert)
グランドキャニオンの中にあるペインテッド砂漠が舞台である。猛禽鳥類のノスリとガラガラヘビの死闘、毒グモタランチュラと毒蛇の命がけの争い、その大毒グモタランチュラでさえ一刺しで麻痺させ、穴に引き込んで卵を産み付ける小形の昆虫オオベッコウバチ、さらにサソリ、亀、など数多くの小動物たちの生態が紹介された。必ずしも弱肉強食に支配されるのでなくカンガルーネズミがヨコバイガラガラヘビを恐れず蛇の弱点である眼に後ろ足で砂をかけ続け遂に退散させるというユーモラスなシーンもあった。それまで生物不在の死の世界と思っていた砂漠に逞しく生存している動物、昆虫、植物群がこの自然記録映画に登場し見事な撮影技術で記録されている。
ウォルト・ディズニーは初めて自然界の生命の記録を映像化し1953年度アカデミーの長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。砂漠の花の開花を高速度で見せるシーンなど新しいカメラ技術も使用されていた。映像としても例がない作風で次々に繰り出される画面に圧倒される思いだった。今は多くの番組でふんだんに放映されている自然界の動植物の生態、紹介も当時はすべて初めて目にする驚きの映像であった。わずか73分という短い作品だが当時の我々は映し出される未知の領域に、視覚と脳細胞はプルプルと震えるような興奮を覚えていたと記憶する。
◆「ピーター・パン」(1953年作)
1980年代に再公開されたときまだ我が家に録画ビデオ装置が無く、録音だけ行ったが家の子供たちはその録音を聞くだけで楽しんでいた。それだけ子供の心をとらえる作品だった。大人になって観るとピーター・パンより悪役キャプテン・フックの愉快なキャラクターの方が魅力を感じる。なお我々古い世代に懐かしいウォルト・ディズニー画風はこの映画頃から変化するがやはり色鮮やかで細緻なディズニー古来の画風が懐かしい。
◆ディズニーランドの創設
ウォルト・ディズニーは1948年ごろから、テーマパークの建設構想を持っていく。娘たちを遊園地に連れてベンチに座ったときに手持ち無沙汰な親の姿を見て大人も楽しめる遊園地の建設を思い立ったとも言われている。構想は有り余るものだったがまだ資金力は無かったディズニーはまた素晴らしい着想を得た。新たなメディアであるテレビとの連携である。
1954年には「ディズニーランド」というTV番組を放映し、ディズニー自らが出演してアトラクションやアニメ作品の紹介などを行った。番組は大好評となり、ディズニーランド建設後も54年間にわたって放映され続ける長寿番組となり逆に資金提供者が増加さえしていった。
資金を調達したディズニーランドは、1954年7月着工したが、既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。彼はこのテーマパークの建設に熱中し、建設現場に足を運び直接指示を行っている。
1955年7月にディズニーランドは正式にオープンした。前記の「ディズニーランド」番組内で全米にその様子が中継され瞬く間に大成功をおさめる。ディズニー社の経営の柱の一つとなり、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。
「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と彼は語っていたが私も何度か訪ねてその綺麗さを実感した。
彼はオープン時のスピーチの中で、「私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。」と言った。その理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれている。
さらに二つ目のテーマパーク建設を構想したが1966年12月15日、過度の喫煙が原因の肺がんによる肺炎で、ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートの完成を見ないまま亡くなった。満65歳であった。それから50年余り、今でもノーチラス号、砂漠の動物たち、空を飛ぶピーター・パンたちは私の心に生きている。
<スクリーン憧子>