第3回
〜 切なくも、まぶしい青春群像 〜
スクリーン憧子

映画のジャンルの中で青春がテーマとなるものは多い。青春の喜びと悲しみ、栄光と挫折を自らのこととして観る若者が対象になり、青春映画が多数作成されるのは当然である。しかしその時代の若者に支持されるだけの作品は忘れられる。老境にある鑑賞者がいまだに熱中し、見ごたえがあり、そして遠い青春を振り返って新たな感激を呼び覚ましてくれる作品こそ本当の映画の役割を果たしたものということが出来ると思う。これまで数多くの青春群像が描かれてきたが今回はその中から最も共感した3作品を選び紹介したい。
 描かれた時代順に1920年代を描いた「草原の輝き」(1961年)、1950年代のニューヨークを描いた「ウェストサイド物語」(1961年)、そして1980年代を背景とした「フェーム」(1980年)である。

1. 「草原の輝き」(Splendor in the Grass:1961年作)背景1920年代
  監督エリア・カザン、主演ナタリー・ウッド、ウォーレン・ベイテイ
 「・・・・・草原の輝き 花美しく咲くとき
 再び それは還らずとも 嘆くなかれ
 その奥に秘められし 力を見出すべし・・・・・」
これは、劇中で失恋の打撃を受け失意と混乱の底にある主人公(ナタリー・ウッド)が教室で先生に指名され答えられず教室を飛び出していくシーンで登場するワーズワースの詩である。詩は教材の一つとして引用されたのであるが奇しくもこの映画の主題を予言していた。
米中部の田舎が舞台で、若者たちはそれぞれに学園生活と若々しい恋に生きていた。主人公は熱烈に愛しながらも性格も素直で宗教的なバックボーンも持ち一線は越えられない。しかし恋人が他の友人女性と関係を結んだことを知り動揺し日常の生活も悲嘆の底まで心乱れてしまう。愛情が深く真剣だったゆえに打撃も大きかったのである。前述の教室の出来事はそのさ中に起こったもので教室を飛び出した彼女は村中で捜索するほど行方をくらまし遂に精神を病んでしまった。それから病院での永い生活が続く。
一方恋人の彼は厳格な父の期待に応えるべく大学に進学する。しかし学業を続けるほどの適性を持っていないと自覚した彼は落伍し遂に退学してしまう。この間1920年代アメリカの空前の好況や1929年の大恐慌に見舞われ好調だった父の事業が行き詰まりし、父は自殺という経過が淡々と描かれていく。
彼女は永い病院での治療の末に回復し、入院中に知り合った同じ患者の医師と婚約した。一方彼は大学を止め在学中に知り合った女性と結婚し農場経営に転換する。小規模の新しい農場だった。映画の終盤はその二人の再会を描く。退院・結婚した彼女は懐かしい故郷を訪ねた。久しぶりの再会を喜ぶ友人たち、彼女は彼にもう一度会うことを希望する。友人たちは止めたが彼女は会いに行った。どうしても忘れられず、いや忘れるためにであろうか?彼は懐かしそうに迎えたが最早昔の二人とはほど遠い存在、視線をこちらに向けることをせず申し訳無げな姿だった。もうすぐ二人目の子供が生まれることも告げられる。じっと彼の行動を眼で追う・・・最早あの時の狂おしいほど互いを求め合った熱い青春は過去となったことを知った。冒頭のワーズワースの詩が語るシーンである。この時のナタリーの穏やかな、しかし凛とした微笑み、表情は素晴らしい。二人の心が無言の中に描かれていく。終盤の画面を見ながら観客は泣いていたと思う。
ナタリー・ウッドは初めてこの映画でアカデミー主演女優賞にノミネートされている。前半の失恋の痛手の場面で、母親から彼との関係を疑われた入浴中の彼女が飛び出し「この体を、傷つけてさえくれなかったのよ」と泣きながら叫ぶシーンがある。迫真の体当たり演技だった。ナタリーはこの年に名作「ウェストサイド物語」でも主演している。晩年の不幸な死を考えると彼女の人生の中で最も多忙な最も輝いた一年だったろう。
ワーズワースの詩は今でも多くの人に愛誦されている。多数の名作を世に送りだしたエリア・カザン監督作品の中で最も感銘を受けた作品である。

2. 「ウェストサイド物語」(West Side Story:1961年)背景1950年代
  監督ロバート・ワイズ、主演ナタリー・ウッド、リチャード・ベイマー。
  助演ジョージ・チャキリス、リタ・モレノ
青春群像を描いた最高の作品であるとともに高い視野と社会性も持っている。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を元に、1950年代のアメリカ、ニューヨーク・マンハッタンのスラム街で繰り広げられる白人系とプエルトリコ系の対立と、その中で芽生えたラブストーリーが悲劇のラストに向かってダイナミックなダンスとともに描かれている斬新な作品である。
トップシーンから魅了される。ニューヨークの上空から街を見下ろしていき摩天楼を過ぎてゆっくり下り始める。音は都市が発する音楽以前のかすかな音のみ。映画の舞台になる下町ウェストサイドをゆっくり見まわしながらやっと地面に到達していく。フィンガー・スナップの音が物語の始まりを伝えるように鳴り始める・・・。この間約5分間、字幕もなく映像もなくバーコードのように簡略化されたスカイスクレーパだけが現れた。
二つの少年団グループの抗争は21世紀の今もアメリカにも残る人種対立の問題でその対立の根深さは執拗なほどリアルに描かれている。主演のナタリー・ウッドとリチャード・ベイマーは中立的立場で開催されたダンスパーティーで出会い一目で恋に陥るのだがこの対立の中では祝福されるはずもない。対立と許されない愛が監督ロバート・ワイズの優れた演出、画面構成、画面転換の妙、歌の魅力、流麗かつスピーディーなダンスの連続で比類ないミュージカル作品として表現されていく。
画面のすばらしさはこの作品でアカデミー助演男優賞、助演女優賞を獲ったジョージ・チャキリスとリタ・モレノの踊りだけに留まらない。ダンスの名手として知られたラス・タンブリンもその華麗なダンスに加えアクロバティックなアクションで存在感を見せている。何よりチャキリスのダンスの華麗・優美さは名匠の完成された絵を見るような安定感と心地よさがあった。
決闘に赴く二グループの接近とナタリー、ベイマーの愛誦という二極の愛憎が交互に画面に表されるシーンがあるが矛盾する二要素が音楽とアクションで映像として見事に成立・調和しておりここにもこの映画の監督(ロバート・ワイズ)、音楽(レナード・バーンスティン)、振付(ジェローム・ロビンス)の並々ならぬ結集を感じることが出来るシーンである。
ダンス「クール」で見られる本来のダンスが有する爆発の逆“抑制”を求めるシーンは革命的である。対立グループの代表が決闘で相手を殺すシーンもナイフがギラリと光るだけの簡潔な場面にまとめられているシンプルさも演出として光る。一方自分たちが不良化した原因は「Social disease(社会病)」 と表現する悪童たちの憎たらしさも見せている。
たゆみない映像美の連続の中、最後はロミオ役のトニーは対立グループに銃で殺されていく。悲しみと怒りに燃えてジュリエット役のマリアが恋人を殺した銃を手に取って構え、「銃ではなく憎しみで殺したのよ!私も殺すわ、憎いから!」と叫ぶシーンのリアリティーはすごかった。向けられた銃口がこれほど怖くすさまじく今にも発射されそうに思ったことはない。彼女の悲嘆とすさまじい憤怒を見て対立する両グループはやっと我に返りトニーの遺体を共に運び出そうとする。このラストシーンでの対立する両グループがためらいながらも共同作業を行う短いシーンで映画は対立の解消を精一杯に表現したかったのだろうかと思った。
バーンスタインの音楽は素晴らしく今でも米国で選ばれるミュージカル劇音楽のトップランクに入っている。ミュージカル映画の代表作として評価は高く何よりシェークスピア原作の「ロミオとジュリエット」を余すところなく現代に置き換えた脚本と演出の見事さに感嘆し敬意を表したい。ミュージカルの分野のみならずアメリカ映画の中でもそびえたつ名作とされている。
余談であるが最近チャキリスが語った言葉を知った。「あの映画に出演したメンバーは、撮影後にバラバラに散らばったんだけど、カリフォルニア在住の仲間とは、チームは関係なく今でもファミリーのように付き合っているよ。みんな、この映画に賭けていたこともあって、本当に一生懸命だった。仲間との関係も緊密だったし、人生に一度あるかないかの経験だったんじゃないかな」映画作成後も出演者にとって珠玉の作品だったことを知り嬉しく思う。

3. 「フェーム」(Fame:1980年作)背景1980年代
  監督アラン・パーカー、主演アイリーン・キャラ
トップシーンにいきなり舞台劇「オセロー」のローレンス・オリビエが大写しされる。芸術志向のシリアスな若者達のドラマが描かれるかと思ったが映画の冒頭にはニューヨークの芸術学高校への大勢の若者たちのユーモラスな、しかし必死の入試シーンから始まり、その後合格した若者たちの4年間の生活が校内でのハードなトレーニングと個人の生活両面での哀歓を込め、共感と、愛情をもって描かれている。彼らが目指す芸術へのあくなき挑戦と挫折、そして夢を果たせず去っていく若者たち、青春群像をモチーフにした傑作である。
試験は将来の進路に沿って演劇、音楽、ダンスの三種に分けられているが、入試日の描写が秀逸で、既にこの段階でパフォーマンスを見せる者もいるが、荒唐無稽な、あるいは下手で試験官が呆れるシーンや余りの下手さを試験官が楽しんでさえいるシーンもある。
まるでなってない踊りを堂々と見せる口達者な受験生にはその場で試験官から演劇への受験を勧められる。またダンスの受験にただ受験生の引き立て役として参加し一緒に踊った学生が才能ありと見られ即座に受験申し込みを勧められるケースもあった。不合格となった本来の受験生が「こんな学校に誰が来てやるか!」と毒づく場面もありこの世界で生きていく特異さが表わされている。
入学した学生たちはハードなトレーニングに明け暮れる。教師はその分野ごとに強靭な信念を持ちダンス、舞台劇、音楽のそれぞれにこの分野が「hardest:最も厳しい」と学生たちに告げ、容赦なく芸術の世界の厳しさ、現実の姿を若い学生に周知しようとする。1年時に将来を嘱望されて巣立った卒業生が活躍もできずたまたま訪れたレストランでウェイターをやっているところにも遭遇する。
教師はハードに「必要なのは面の皮だ、売り込む方法を考えろ。5万人もリストされてるが食えるのは5百人だ。良くて生活保護が受けられる程度・・・」と厳しい心構えを説く
しかし若者の世界である。画面は終始爆発した。学生食堂では学生が授業の延長をやっている。古典劇の衣装のままセリフを確かめる学生、座席でダンスのストレッチを行う学生、ステップを踏みながらところ狭しと跳ね回る学生、楽器の調整に余念のない学生、作曲志望の学生はこの時とばかり歌い出す。主演を務めたアイリーン・キャラの歌はこの映画の最高のシーンだった。ノリノリの学生たちは食堂を飛び出し外の通りにダンスの輪を繰り広げあげく通りがかった車の上にまで乗って踊りまくる。
この映画の製作は38年前、出演者は既に60代に到達しているはずである。同窓会をして会ってみたいと考える。あの時夢と希望にあふれていた君たちがその後どんな活動をしているか、名声(フェーム)を得ても得てなくてもいい。既に当時のスターだったアイリーン・キャラの他のこの映画の出演者でその後活躍している例があるのだろうか?
芸術へのあくなき挑戦と挫折、そして夢に届くことなく去っていく若者たち、青春群像を描いた見事な作品であった。

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