第1回
〜 フランス留学の思い出(シニアからのメッセージ) 〜
桑原守二

■ 桑原守二氏プロフィール

 桑原守二氏は昭和31年に日本電信電話公社(NTT)に入社、マイクロ波方式をはじめ電気通信技術全般の研究・開発を指導され、民営化後にはNTTの代表取締役副社長に就任されました。現役時代には、世界で初めて無線通信におけるPCM伝送方式の実用化をITUに提案、昭和43年に商用化を主導され、また平成4年のNTTドコモ設立を取り仕切るなど、我が国の無線通信技術の発展に多大の貢献を果たしてこられました。その後、桑原情報研究所を創立されて無線通信システムに対する雷害の除去や、マイクロ波通信の発展史の取りまとめにも尽力され、また現在も電波・電気通信分野の専門紙のコラムニストとして活躍しておられます。


■ コラム

 このほど(株)ICTサポートを立ち上げられた 田中征治氏からホームページ、コラム欄への寄稿を依頼された。筆者が80年以上も馬齢を重ねていることから、何か思い当たる話があるだろうというお尋ね。

 監督官庁のお役人と被監督事業に従事する者という立場であった頃から何かとお願いをし、たまには頼まれごともしながらすでに30年近く(もしかしたらそれ以上)も親交を続けている田中氏からのご依頼なので、何とかお応えをしたいと脳中にはつねに課題意識を抱えていたが、今までいろいろな場で講演あるいは執筆をしてきてもこれほど思い悩んだことはなかった。その理由を推し量るに、筆者がとんでもなく楽天主義で、不幸な目に遭い、あるいは逆境に置かれたという意識を長く持ち続けたことがないためのようだ。「若いときの辛労は買うてもせよ」という諺があるが、苦労したという記憶も多くはないが、敢えて探すならば、フランス留学時代の貧乏生活であろうか。

 筆者はフランス政府給費留学生として昭和39年10月から約1年間、フランスで勉強をさせて頂いた。電電公社本社の係長をしていた時代のことである。当時は外貨の割り当てが少なく、外国出張は定年近い幹部が年に数人、長年の勤務に対するご褒美を兼ねて米国或いは欧州を訪問する程度であった。会社の金で外国留学など夢にも考えられず、僅かにフルブライトの試験に合格して米国へ行くか、前記のフランス政府給費でフランスへ行くかの2つしか方法がなかった。

 電電公社でフランス留学を果たしたのは筆者より7年先輩の輿寛次郎氏をもって嚆矢とする。フランスで学ぶに値する課題があって、フランス大使館が実施する試験に合格しなければならない。筆者は大学で第2外国語にフランス語を選んでいたことが役立ち、何とか試験をパスすることができた。輿氏はフランスの植民地であったカンボジアの通信省に勤務した経験が役立ったのかもしれない。

 フルブライトについては承知していないが、フランス政府の給費は1カ月750フランであった。当時の為替レートは固定で、日本円に換算すると54,000円である。電電公社の給料が1カ月3万円程度であったからそれに比べると高い。しかしパリの物価は東京よりもはるかに高かった。1日25フラン(5ドル、1800円)で生活するのは大変だった。今でいえば東京で、1000円で生活しろといわれた感じである。

 留学前には、フランスへ着いて担当する部署まで行けば適当な宿舎を世話してくれると聞かされていた。空港から重いトランクを引きずりながらバスや地下鉄を乗り継いで、ようやくたどり着いた部署の担当女性から思いもよらず冷たい言葉しかもらえなかった。「ホテルは自分で探しなさい。安いホテルはパリ16区のこのあたりにある」と言い地図に丸印を付けてくれただけ。フランス語は満足にしゃべれず、途方にくれた。

 再び地下鉄で教えられた地域まで行き、ホテルの看板が出てはいるがホテルとは思えないような門戸を叩き、宿泊料を尋ねると25フランだと言う。日本を出てからすでに2日が経ち、長旅で疲れ果てて居て、とりあえずそのホテルに旅装を解くことにした。風呂はもちろんシャワーも付いていない部屋で25フランの給費を全部ホテルに払ったのでは生活が成り立たない。日本からの外貨の持ち出しは2万円までと制限されており、それよりも若干多い闇ドルを持ってきてはいたが、いざというときに多少の蓄えも必要である。25フランで如何に暮らしていくかを考えることが留学生活の始まりであった。

 翌日、留学先のフランス通信省を尋ねた。留学テーマの勉強を始める前に語学研修を受けることになっており、研修機関が決まるまでホテルで待機していろと言われた。通信省の担当官は親切だった。安いホテル探しを手伝ってくれた。やっと見つけ出したのが1日11フランの超安ホテルである。4畳半ぐらいの小さな部屋で、トイレはないがビデだけがあった。隣の部屋から夜中に異様な声が響くのにも悩まされた。

 このホテルでの約半月間がもっとも辛い時期だった。トイレは暗い中を外に出ていかなければならない。小用はビデで済ませた。ビデをよく洗って、洗濯もそこでした。ホテル代を引くと14フラン、これで3食をいかに賄うのか。次はそれが問題だった。

 安いレストランでも定食を食べると10フランはかかる。セルフサービスの店でも5〜6フランは必要だ。朝食にクルワッサンを食べると1個20サンチーム、これを2個食べてカフェ・オ・レを飲んだら3フランだ。夕食のとき、レストランで定食を頼むとフランスパン(バゲット)は食べ放題なので、2、3個頂いてきて、これで翌日の朝食にすることとした。しかし放って置くと乾燥してカチカチになる。ビニールを手に入れて包んで置くと、今度は湿ってビチャビチャになってしまう。

 パリの水道水は硬水なので飲んだら体に良くないと聞かされていた。しかし空気が乾いているので、やたらに喉が渇く。パリで一番安い飲み物はビールである。ビールを沢山飲むと小用をしたくなる。しかしパリには公衆トイレというものがない。仕方なくカフェに入って用を足し、コーヒーを飲むと、カフェを出た後間もなくまたトイレに行きたくなる。悪循環である。

 食料品店に入り、一番安い食べ物は何かと見るとバナナだった。一房が1フランで買える。当時の日本では、バナナは高級品であった。これだ、これだと思って買って帰り、バナナを食べてビールを飲み、昼食の代わりにしていたらお腹を壊してしまった。

 こうして半月が過ぎ、語学研修の場所がモンペリエ大学と決まった。南仏である。パリと違って太陽が一杯だ。そして何よりも嬉しかったのは学生寮に入れてくれたことだった。学生食堂で3食を食べて寮費を合わせて支出は150フラン。やっと安心して日を過ごせるようになった。語学の先生は美人で、勉強が楽しかった。他国の留学生の友達もできた。ブドウ祭りで賑やかな南仏の生活を満喫することができた。

 かくしてフランス留学も軌道に乗せることができたのだが、最初のパリの半月の経験は貴重である。おかげで、どんな国へ行って貧乏生活を強いられても驚かないだけの、妙な自信が身に付いたように思っている。

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