第2回
〜 パリ貧乏留学の思い出(シニアからのメッセージ) 〜
桑原守二

■ 桑原守二氏プロフィール

 桑原守二氏は昭和31年に日本電信電話公社(NTT)に入社、マイクロ波方式をはじめ電気通信技術全般の研究・開発を指導され、民営化後にはNTTの代表取締役副社長に就任されました。現役時代には、世界で初めて無線通信におけるPCM伝送方式の実用化をITUに提案、昭和43年に商用化を主導され、また平成4年のNTTドコモ設立を取り仕切るなど、我が国の無線通信技術の発展に多大の貢献を果たしてこられました。その後、桑原情報研究所を創立されて無線通信システムに対する雷害の除去や、マイクロ波通信の発展史の取りまとめにも尽力され、また現在も電波・電気通信分野の専門紙のコラムニストとして活躍しておられます。


■ コラム

 平成27年、すでに7年近く前に、フランス留学で貧乏生活を送った苦労話をご紹介した。せっかくなので、苦労しただけでなくその後の職務にも役立った話を、苦労話の続きとして記述し、ご参考に供したい。

 前項では留学の始まった約二か月間が話の中心であったが、語学研修が終わってパリに戻ってからは、留学のテーマである「異方式テレビジョン映像信号の国際接続」について、フランス郵電省およびRTF(フランスのラジオ・テレビ局)において勉強を続けた。以下はその間におけるエポック的な出来事についてである。

 最初は国際会議への出席についてである。

 1965年2月、CCIR(現在のITU-R)の中間会議がモナコのモンテカルロで開催され、電電公社からPCMマイクロ波方式に関する新質問(Question)の設定を提案する文書が提出された。本件については留学前に話を聞いて居り、文書の作成について筆者も参画していた。留学先のフランス通信省に「この国際会議では通信衛星への周波数割り当てが議論されるので、筆者の留学目的に大変参考になる」と説明し、会議に出席したいと言上した。この点フランスはおおらかな国である。「ホテル代は出せないが、往復の旅費は面倒を見よう」と言ってくれた。

 モンテカルロといえば超一流のレゾート地である。ホテルの宿泊費はパリよりはるかに高価で、留学の給費(1ヵ月5万4000円)から払える金額ではない。幸い、電電公社のジュネーブ事務所が2年ほど前に設立されていて、初代事務所長は元施設局無線課長の安藤健二氏であった。筆者は安藤氏の部下で居たことがある。その縁で安藤氏は、モナコで事務作業をするアルバイトを雇用したことにして筆者のホテル代を支払ってくれた。

 会議には郵政省、KDDのほか電電公社の研究所と技術局の土井博之無線担当調査役が出席していた。土井氏も良く存じ上げている方であり、提出文書のプレゼンテーションは君に任せると言われてしまった。もちろん、中味について筆者は詳細に理解している。JAPANと名札が置かれた席に座り、英語で発言したが、フランス席には顔見知りのCNET(郵電省の研究所)の方が居て、こちらを不思議そうに見ておられた。

[写真 CCIRに出席した頃の筆者(31歳)]

 新質問の設定は、出席していた各国の代表が「これからの重要な課題である」と一様に理解して下さり、異論なく承認して頂いた。積極的なサポート意見として「なるべく早く各国に周知した方がよい」という発言があり、事務局から回覧文書を加盟国に送り、次回の総会を待たずに質問が設定されることになったのは望外の成果であった。

 次回の総会は1966年にオスロで開催されたCCIR第Ⅺ回総会である。これに再び日本から「Report」の作成を提案する寄与文書を提出したのだが、質問の設定とReportの作成は全く次元が異なることを、総会において厳しく理解させられることになる。因みに総会出席者は肥後大介局長、西條利彦無線課長、池上文夫研究室長、岩崎昇三調査員、安藤ジュネーブ所長(役職は当時のもの)、筆者である。

 二番目は衛星通信基地局での研修についてである。

[プレミュールボドー衛星通信基地局]

 留学中の研修スケジュールの一環としてプレミュールボドー衛星通信基地局の見学を入れておいたので、65年3月から4月にかけて同基地局での業務内容を調査させて頂いた。この基地局はCNETラニオン支所が組織名である。

 ラニオンというのはフランスの北西部、ブリュターニュ半島の突先に近く、サンマロ湾に面した人口2万弱の小さな町である。ブリュターニュ地方の中心都市レンヌからさらに約150㎞北西にあり、レンヌから列車で2時間近くかかる。パリからレンヌまで現在はTGVが走っていて2時間で行けるが、当時は5時間位かかったように記憶している。なお、レンヌの北方100Kmのところに有名な世界遺産、モンサンミシェルがある。

 衛星通信基地局はプレミュールボドーというところにあるが、残念ながら世界地図には載っていない。直径5~60mのドームがあり、その中に長さ30m以上もあるホーン・レフレクター・アンテナが収められている。円盤の上に乗っており、モーターで自由に方向を変えられる。仰角も0~90度、自由である。ドームから近いところに、ドゴール大統領が建てたと言う記念碑があった。

 これは筆者の計画外のことであったが、1965年4月6日、世界で最初の商業通信衛星インテルサット1号が米国ケープカナベラルから打ち上げられた。このとき、筆者はちょうど衛星通信基地局内の管制室に居て、衛星の位置が刻々と報告される様子を目の当たりにすることができた。プレミュールボドー基地局から米国に送られたデータも活用されていたに違いない。この場に立ち会った日本人は筆者以外に誰もいなかったことは確かだが、米国の管制センターにKDDの技術者が居たかどうか、筆者は承知していない。

 以下は留学に直接関係ない余談である。CNETにもブリッジの同好会みたいなものがあるらしい。ラニオン支所にも好きな人が何人か居られ、ときどきプレイして遊んでいた。筆者も中央学園での入社訓練の際に、日本ではトップレベルの競技実績を持つ長谷川寿彦氏から教えを受け、同期生でプレイをしているうちに、人前に出ても恥ずかしくない腕前になっていた。ラニオンの仲間に入れてもらい、何度かプレイさせてもらった。ハート、スペード、ノートランプ、ダブルなどのビッドを全てフランス語でいうので、最初は少し面食らったが、それに慣れてからは適当にお相手ができ、研修でたまったストレスの発散に役立ったように思っている。
 (令和4年5月3日)

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