第2回
〜 「やっぱり海外で生活しながら教えてみたい⇒ベトナムでの生活経験(1)」 〜
桐原 征雄

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 本稿の執筆時点(2020年5月上旬)は、例年であればGWの真っ最中ですが、今年は新型コロナウイルス禍で緊急事態宣言の真っ只中にあります。外出を自粛し、接触を回避するなど物理的なつながりを最少にするように気を付けていますが、一方では精神的に委縮しないように思い、また外出できない分、想像力(出来れば創造力も)を働かせて少しでも楽しく過ごしたいと思っています。この原稿に取り組むのもその一つです。
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 「やっぱり海外に出て、現地で生活しながら教えてみたい!」・・・2005年初めから1年間、東京の日本語学校で指導を終えた頃の感想です。退職の数年前に第二の人生を考えた時、社会、会社そして家族に対する責任は一応果たしたので、これからは延長上の生活ではなく自分自身のための別の人生を歩みたいと思いました。

 いろいろ調べた結果、最終的には語学教師、それも日本語教師を目指すことにしました。日本語教師を選んだのは、逆説的に聞こえるかもしれませんが、海外で教える可能性があると分かったからです(2018年の調査では、142か国で385万人弱の学習者がいるとのことです)。

 退職の2年前から退勤後に教師養成講座(420H)に通い始め、教えるための様々な知識や実技を学びました。この間、担当していたシステムでいろいろなトラブルがありましたが、部下のサポートのお陰で勉強を続けることが出来ました。理解・協力してくれた部下に今でも深く感謝しています。

 養成講座に加え、もう一つの資格である日本語教育能力試験の勉強を続けましたが、特に無アクセント県である熊本出身の私にはアクセント問題が大変で、漸く2年目にしてcertificate(認定証)を獲得できました。

 2004年12月に退職した後、翌年1月から都内の日本語学校で非常勤講師として中国・台湾・韓国から日本の大学院を目指す学生を指導しました。これはこれでとても楽しかったのですが、やはり海外に行って腰を落ち着け、生活しながら教えたいという気持ちが強まりました。候補の国としてはアジア圏が現実的であり、治安の良さ(反日的な運動の有無等)、コミュニケーションの取り易さ(Alphabetのように識別可能な文字を使っているか等)、食物、気候などから比較検討しました。その後アンコールワット観光の序に立ち寄ったホーチミンで日本語学校を訪れる機会があり、そこで「日本語は一朝一夕上手にならない:Study for Success and Wealth」という看板を見て、ベトナムの若者の成功と幸福のための力になろうと決めました。

 但し、後で分かったのですが確かにベトナムではアルファベットを使ってはいますが、文字の種類、発音が多様であり、コミュニケーションに非常に苦労することになりました。

 ベトナムでの働き先を探しているうちに、日本の若者が働きたがらない中小企業のために、真面目で熱心なベトナム人学生に日本語教育をして中小企業に紹介するというインキュベーションビジネスに取り組んでいる先生(W大学)を見つけ、面談の結果ハノイ行きを決めました。事前に旅行して、ハノイには緑と水が多く、故郷の熊本のような感じで落ち着ける場所だということも選んだ理由の一つです。以下、私が体験したハノイでの生活や人々との触れ合いなどを紹介したいと思います。前半は仕事、町中、言葉についてです。

【仕事】

① 最初の学校では日本の中小企業で働くための一般的な初中級レベルの日本語を指導しました。女子学生も多く和やかな雰囲気での授業に加え、一緒に市内巡りや(私の)誕生会、仲秋の月見会等を楽しく過ごしました。
しかし教えている内に校長(ベトナム人)の考え方と合わなくなり、よりやり甲斐があって自分の知識、スキル、経験を生かせる場を探して、幸運にも理解のある社長(30代のベトナム人)と巡り合い転職しました。

② 2番目の職場では技術系大学生が相手で、彼らは大手自動車関連会社に来日して日本人学生と同じ待遇で働くというもので意欲が高いです。一般的な日本語指導は他の先生に任せて、私は日本の自動車製造技術の説明や、彼らの卒業論文を日本語化し面接官に説明・議論できるように指導しました。初年は機械系学生が中心でしたので、慣れない機械用語に苦労しましたが、ネットで勉強したり、急遽日本から機械用語辞典を送ってもらったりして切り抜けました。ベトナムらしい論文としては「サトウキビ切断機の方向変換ギアボックスの設計」など、苦労しながらも楽しく過ごせました。会社への志望動機として「日本で技術と仕事の段取りを覚え、国に帰って会社や工場を作り、国と地域の発展に貢献したい」というパターンを教えましたが、既に実現している者もいます。2007年から順次送り出しましたが、2008年にはリーマンショックの影響で面接に合格しながらも日本に行けなかった生徒も多く本当に残念でした。

【 町中:常に人が溢れている 中国統治、フランス統治の名残 】

① 通りという通りに常に人が溢れている。まだエアコンが一般家庭に普及していないこともあって、夜遅くまで外で過ごす人が多い。子供が公園で遅くまで走り回り、それをお年寄りがノンビリ眺めている様子は昭和の時代の日本のような感じでした(但し、私が過ごした下町での様子ですが)。それでベトナムから日本に就職して来た者は日本の町通りの人の少なさに本当に驚き且つ寂しがっていました。

② 地政的な要因からかベトナムは大国から狙われ易いのかもしれません。中国から約1000年の支配と抗戦、フランスから約100年の支配と抗戦、そしてアメリカとの約10年間の抗戦の歴史があり、町中には抗中、抗仏、抗米の記念館、記念碑、英雄の名前の通りがたくさんあります。我が家の近所には、古代に中国と戦ったハイバーチュン(Hai:2 Ba:中高年女性の尊称 Trung:徴 つまり徴夫人姉妹)を祀る神社があり、毎年の中国撃退記念祭は大変な賑やかさでした。徴夫人が乗っていた象の模型の足をさすって、脚の回復を祈るおばあさんの姿は日本と変わりません。また歴史博物館で対モンゴル戦争について3回の来襲と撃退を知りました。川の中に杭を埋め、干満の差を利用してモンゴルの巨船を釘付けにして全滅させ、その結果日本への来襲が2回で終わったとの説明でした。健闘してくれたべトナムに感謝です。
フランスについては、オペラハウスとか迎賓館、ホテル、避暑地などの文化的なもの、更にはバイン(=フランスパン)やコーヒー、プリンなど食文化などへの影響が大きく残っています。ただ統治時代の独立運動家を収容した牢獄(現在は観光施設)にはギロチンがあり、そこにはまた抗米戦争時にハノイ上空で撃墜されたマケイン飛行士(元議員)の収容状況も展示されていました。

③ テト・・・私達の年代はベトナム戦争(ベトナム人からすれば、抗米戦争)時の「テト攻勢」という言葉を思い出すかも知れません。しかしテト(Tet)は、元々は中国の「節」の意味で、元旦の節(テトグェンダン)と仲秋の節(テトチュントゥ)もあります。旧正月のテトの時は都会に仕事に来ていた人々が一斉に田舎に帰るので、町はガランとなり店も殆んど閉じてしまいます。仲秋の時は、随所に月餅を売る店が現れ、神社で様々な踊りやショーがあったり、また湖に船を浮かべて月見パーティーを楽しんだり、日本よりもはるかに秋の祭りを大事にしている様子でした。

④ 公園・・・ハノイを流れている紅河が昔洪水を度々起こしたことで、市内の随所に池があり、その周りの公園に早朝から大勢の人が集まってダンスやバドミントン、ダカウ(蹴羽根)など様々な運動を楽しんでいます。多くの高齢者が元気に楽しんでいる様子を見ると、介護費用は余りかからないのではと思います。また子供たちの遊びの中に竹馬や、女児の「ゴム飛び」など日本と同じものがあって、懐かしく眺めました。

⑤ バイクの台数が多いだけあって、店の前の道路は駐輪場となってしまいます。ところが夜になると、盗難防止のためにバイクは全て家の中に引き込まれ、屋外には1台も見えなくなるのは不思議な感じです。

【言葉】ホンの少しでも発音が違うと全く通じない

 日本では外国人の下手な日本語でも大体通じますが、ベトナムでは下手なベトナム語は全く通じません。日本人は、変な日本語に出会っても「ははぁ、こんなことを言っているのかな」と推測して理解しようとすることが多い。しかしベトナムの人々は全く推測してくれないと感じます。ただ意地悪でそうしているのではなく、言葉の仕組みの相違で、少しでも違っていると全く違う言葉に聞こえるからのようです。日本語の発音は受け入れの幅が広いのに対して、ベトナムでは一つ一つの音の識別幅が非常に狭いというか、厳密に分かれているようです。例えば「A:ア」の音は、口を大きく開けても小さく発音しても、明確でも曖昧でも、長くても短くても日本人は大体「ア」と認識しますが、ベトナム語ではAの文字が3種類、声の上昇・下降などを表す声調が6種類で計算上18種類の「ア」があり得、教え子に尋ねたら意味のある12種類以上を聞き分け、発音し分けるとのことでした。

 変な例文ですが「目と肝を失ったが涼しい顔だ」という文の“目、肝、失う、涼しい、顔“は、カタカナで書くと全て同じ”マット“です。しかし、ベトナム語では全て異なる文字、発音であり、発音し分け、聞き分けができるということでした。彼らの、ある面での言語能力の高さに感心する一方で、その緻密さが世界と交流して行くには却って足枷になるのではないか、とも感じます。教え子によれば「外国人がベトナム語を簡単に勉強できるように、もっと整理して無意味な規則を失くす努力が必要と学者から声があったが、文部科学省はのれんに腕押し」とのことでした。

 数年前にハノイを再訪した際、教え子(起業して社長)が運転する車に、彼の小学1年生の娘と同乗することになりました。最初は話題が見つからなかったのですが、持っていた地図を見ながら“地名”発音ゲームをし始めて仲良くなりましたが、この地名発音がとても難しい。”Viet Tri”は、“ヴィエットチィ”と発音するのですが何度発音しても「合格」がもらえません。やっと合格が出た時には、「さっきと同じ発音だけど?」という状況で、もう一度と言われても再現は出来ません。楽しくも難しさを実感した旅でした。

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