第2回
〜 逓信七賢人 〜
三原 種昭

三原種昭氏プロフィール

三原 種昭(昭和14年 1月31日生)

昭和37年 3月 早稲田大学第一理工学部電気通信科卒

昭和同年 4月 日本電信電話公社入社

平成 3年 6月 NTT取締役九州支社長

平成 7年 常務取締役

平成10年 6月 NTTコミュニケーションウェア㈱社長(現 NTTコムウェア㈱)

平成13年 6月 大明㈱社長

その後会長・相談役を経て

平成24年 6月 ㈱ミライト名誉顧問


コラム

明治時代初期、日本の逓信省関係事業を築くのに尽力された七人の偉人を私は逓信七賢人と呼ぶことにしたい。
世の中に「逓信四天王」と呼ばれている方がおられます。日本の郵便制度を確立させた「郵便の祖 前島密」、日本の電信網を立ち上げた「電信の石丸安世」、電話サービスの促進を推進した「電話の石井忠亮」、日本の鉄道建設を推進した「鉄道の井上勝」当時は鉄道も逓信省の所管であったようですね。情報流・物流・人流を担当していたのでしょう。
一昨年この異見・卓見のコーナーで日本の電気通信の祖とも呼ぶべき志田林三郎について投稿させて頂きました。そして志田林三郎にアプローチする段階でこの四天王の事も知り今回は四天王に志田林三郎・電気通信の父と言われる寺島宗則、初代逓信大臣榎本武揚の三名を加えて「逓信七賢人」として取り上げてみた次第です。
明治初期には色んな分野で日本の近代化に貢献した人がたくさんいます、またこの人達の活躍で日本は近代化の道を歩み、欧米諸国の植民地にもならず、その後急速に世界の強豪に肩を並べたのでしょう。
このメンバは日本の電気通信・鉄道の確立が国造りの基本ととらえ、当時虎視眈々と日本を狙う欧米諸国を撥ね付け、日本人でネットワークを作り上げ植民地化の阻止を成し遂げたように思えます。
七賢人を順に紹介したいと思います。

前島 密(1835 天保6~1919 大正8)
前島密は郵便の祖

前島密は日本の郵便制度を確立した人として有名であり、ご存知の方が多いと思います。一円切手にその肖像が描かれております。
郵便制度の確立が有名ですが実は明治近代化時代に漢字制度の廃止、江戸遷都を建議、鉄道建設の立案、新聞事業の育成、江戸時代からの信書送達を担当していた定飛脚の次の仕事としての流通会社陸運元会社(後の日本通運)の創立、海運政策の建議、郵便為替・貯金の開始等多彩であり、そして榎本武揚逓信大臣時には事務次官として志田林三郎工務局長の3人で電話事業の官営サービス開始等も手掛けている、日本近代化の父とも言える人物であります。
出身は新潟県高田(現在の上越市)で幼くして医者の道を目指し江戸に出て医学・蘭学を学ぶがペリー来航を機に国防強化の必要性を痛感し全国の砲台・湾港を見学し、砲術・航海術等を習得、1869(明治2)に明治新政府に出仕、駅逓権正に就任ここで郵便制度の確立を進める。郵便・郵便切手等の言葉は前島の創意であったと言われている。郵便事業の拡大を進めるアイデアとしての特定郵便局制度は前島の発案であり事業拡大に大きな貢献をしている。
1881(明治14)大隈重信と共に下野するがその後早稲田大学の校長にも就任している。1888(明治21)逓信大臣榎本武揚に請われて逓信省事務次官に就任、積年の課題であった電話事業について官営化の道を築き、日本の通信体系の基本を構築した。逓信省を退官後は北越鉄道の社長となり地域の開発に尽力している。まさに日本近代化の父と言えます。

石丸 安世(1839 天保10~1902 明治35)
石丸安世は電信の祖

石丸安世は現在の佐賀市の出生で幕府の海軍伝習所で学び藩随一の英語の達人となり貿易等藩の英語通訳として活躍外国の情報収集に努めていました。1865年には佐賀藩士馬渡八郎と共に長崎のグラバーの手引きで貨物帆船に乗りイギリスに密航する、鎖国下見つかれば当然死罪、危険を冒してまでチャレンジする心意気は素晴らしい。グラバーの実家アバディーンの地で英語や数学そして造船・電信等最先端技術を学ぶ。帰国後は明治政府に入り工部省の初代電信頭に就任する、佐賀藩は当時最先端技術に関心が深く蒸気船や電信機の試作なども行ったとも言われている。日本の利権を守るため電信線の敷設維持は日本人の手でとの意気込みで石丸は当時破天荒の大事業と言われた東京―長崎間の電信架設も推進し、わずか10年で日本縦断電信網を完成させている。ペルーが来航時幕府に電信機を献上しているが諸外国は日本のネットワークを狙った動きを活発化させていた。電信網は明治政府の国内統一の手段、反乱分子の監視などに効果を上げ西南戦争ではその効果が顕著であったと言われている。外国人に任せる訳にはいかないと明治の人は頑張ったのでしょう。またペリー来航の6年前に松代藩士佐久間象山がオランダの書物より情報を得て電信機の試作・実験を実施した事実があり日本人の能力のすばらしさを感じる所である。松代は日本電信発祥の地として顕彰されている。
また石丸は私塾経倫舎を開き物理・地理・算術・英語等を教えているこの私塾の塾生には志田林三郎や中野初子等が学んでおり志田林三郎が工部大学校・イギリスグラスゴーで素晴らしい成果を上げ活躍する基礎は石丸安世から学んだ英語であり、これも何かの縁であろう、七賢人の繋がりである。

石井忠亮(1840 天保11~1901 明治34)
石井忠亮は電話の父

石井忠亮も佐賀の生まれであり蘭学を学び佐賀藩の海軍設置に貢献している。
戊辰戦争では秋田藩の軍艦陽春の艦長で榎本武揚率いる旧幕臣と戦っている。
七賢人の繋がりはこんなところにもあったのだ。1872年には工部省に転籍し1880年電信局長に就任石丸安世に次いで電信ネットワークの建設に従事している、上海に出張した折現地の電話交換局を見学し、上海では電話サービスが普及している実情に驚き、日本でも電話サービスの開始を提唱し必要性を強く訴えた。しかし当時は通話品質の問題や記録性がないこと、資金面での問題も関係して政府は乗り気ではなかった。石井忠亮はそれならばと渋沢栄一を巻き込んで民営で実現することを画策した。これは結果的に政府の意思決定に影響し、政府はユニバーサルサービスの観点から官営とし1890年(明治23)にサービス開始となった。この時は前島密逓信省事務次官と志田林三郎工務局長が官営を主張し榎本武揚逓信大臣を説得した経緯があるようである。電話機の発明は1876年グラハムベルにより発明され、翌年には日本にも伝えられたが日本でサービスが開始されたのは10年以上も経過してからであった。石井忠亮の熱意が無ければ普及はもっと先になったかも知れない。また民営でサービスが開始されていれば現在の通信形態に少なからず影響を与えていたであろうと思います。
石井忠亮はサービス開始前に元老に選ばれその後和歌山県知事に就任している。

井上 勝(1843 天保14~1909 明治42)
井上勝は鉄道の父

井上勝は山口県萩市で生誕長崎でオランダ人教師から洋式兵法をまた幕府の藩書調所で洋学航海術を箱館で英語を学び勉学意欲強く先進国への留学を考えるようになった。当時長州藩も海外での技術習得を考え、後に長州ファイブと呼ばれる5人を脱藩させ密航に備えた。5人は伊藤博文・山尾庸三・井上馨・遠藤謹助・井上勝である。5人は駐日イギリス領事エイベル・ガウワーやジャーディンマセソン商会・グラバー等の助けにより二手にわかれて密航渡英、井上勝はユニバーシティ・カレッジ・ロンドンにて鉱山技術・鉄道技術などを学ぶ。
この長州ファイブは後年明治政府の要職を務め日本近代化に貢献する。
志田林三郎が学んだ工部大学校は理系技術者養成として山尾庸三が開設したものである。井上勝は帰国後1869(明治2)に大蔵省造幣頭兼民部省鉱山正に就任、政府はイギリス人技師エドモンド・モレルを中心として新橋横浜間の鉄道敷設事業を進めていた。井上はその下で実技を習得しつつ路線を敷く実務に携わり、日本最初の鉄道を完成させている。1871(明治4)鉱山寮鉱山頭と鉄道寮鉄道頭も兼任、後に鉄道頭専任となるなど、鉄道事業との関わりが本格化する。
1877(明治10)工部省鉄道局長に就任、京都―大津間の建設工事では技師長となり逢坂山トンネルなどの難工事も日本人独力で工事を完成させた。
また東京―大阪間のルートについては中山道案が提起されていたが東海道建設への上申を行い正式に決定した。1890(明治23)鉄道庁長官に就任鉄道国有論を主張したが民間の業者から反対が強まり、鉄道長官辞任、鉄道車両の国産化を進める会社を設立するなど鉄道事業にその一生を捧げた。
鉄道を建設するなかで日本の美しい自然を破壊した事を悔い、岩手南麓に広がる荒れ地を開墾して大農場を拓き、投資協力を得た三菱の小野義眞氏・社長の岩崎彌之助氏と自分の頭文字を使い「小岩井農場」と名付けた逸話も残っている。
1909(明治42)ヨーロッパ視察中病に倒れ、懐かしいロンドンでその生涯を終える。

寺島 宗則(1832 天保3~1893 明治26)
寺島宗則は電気通信の父

寺島宗則は現在の鹿児島県阿久根市で生誕し長崎で蘭学を、江戸に出て医学・蘭学を学び薩摩藩主島津斉彬の典医から始まり医者・通訳・電信の父・外交官と多彩な活躍をした偉人である。島津藩主斉彬からは集成館事業に就任を要請され写真・ガス灯・電信等の研究や施策に携わる。特に佐賀藩が試作した電信機を鹿児島城内で実験し試用試験を行ったと言われている、この経験が後日横浜で東京との電信線敷設・サービス開通につながっているようである。
1865(元治2)寺島宗則は五大友厚と共に島津藩密航留学生の代表として藩をあげてイギリスに19名の留学生を密航させている。これは長州五傑と同じ時期でロンドンで密航留学生同士の交流があったとも言われている。このメンバには後日「大阪財界の父」と呼ばれた五大友厚、「日本電気通信の父」と呼ばれた寺島宗則、「札幌ビールの父」と呼ばれた村橋久成等がいる。
寺島宗則はオランダ語・英語・フランス語の天才と言われており外交官としての実績はすばらしいものがある。
1869(明治2)神奈川県知事時代横浜東京間の電信線敷設工事責任者として僅か3ヵ月で路線延長32km、593本の電柱工事が完工している。これは島津藩での経験が生きた事象である。文明開化の地横浜で最先端を行く電信事業が開始され、これに尽力した寺島宗則は「日本電気通信の父」と呼ばれている。
因みに東京・横浜間の電信工事に着工した旧歴9月19日は新暦で10月23日であり今日電信電話記念日とされています。

榎本 武揚(1836 天保7~1908 明治41)
榎本武揚は初代逓信大臣

榎本武揚は徳川幕府旗本の次男として江戸で生を受け長崎海軍伝習所に入学蒸気機関学・軍艦運用術その他科学全般に渡って学習する。歴史的には外交官の才能が秀でていて特にロシアとの対応は歴史に残る成果を収めている。逓信大臣は初代として就任するが全般的には外交官として実績が大きい。
1862(文久2)幕府派遣の留学生としてオランダに留学、語学を初めとして軍事・国際法・機械工学・電信技術等広い知識を得てさらにドイツでは製鉄技術フランスの国際法学者オルトランの国際学の基本「万国海津全書」を取得する。オランダでは電信技術を習得しフランスディニエ社製の印字電信機を購入操作を習得する。1867(慶応3)幕府の注文した軍艦開陽丸の艦長として帰国する。しかし翌年江戸開城となり幕府軍を率いて戊辰戦争に突入、幕府軍艦の明治政府への引き渡しを拒否、旧幕軍を率いて品川沖から脱走。その時一人の幕臣が榎本の行動を諫め開陽丸を政府に返納し日本国の海軍の強化に努めるのが真の日本人であり、国の為に尽くすよう説いたが受け入れられなかった。この幕臣こそ前島密、後年榎本が逓信大臣に就任して事務次官に要請した因縁の七賢人繋がりである。
同志を集めて旧幕府軍を率いて蝦夷地に渡り、蝦夷共和国を目指す。箱館五稜郭に立てこもり応戦するが翌1869年官軍に降伏。降伏にあたりオランダで手に入れた「万国海津全書」はこれからの新しい日本に必要な書として灰にするのは忍びないと官軍大将黒田清隆に渡して自害を決意するも部下に止められ官軍の軍門にくだり投獄される。その後黒田清隆・福沢諭吉等の尽力で出獄、北海道の開発の調査に従事、北海道開発を強調する。1874(明治7)ロシア特命全権公使として樺太千島交換条約を締結北の守りを強調した。その後駐清特命公使となり帰国後初代逓信大臣に就任する。(1885(明治18))もとより科学技術にも精通しており地学協会の副会長にも就任していたが1888(明治21)志田林三郎の創意で電気学会を創設し初代会長として榎本は就任し20年間会長を務めている。逓信大臣就任後前島密を事務次官に要請し1885(明治18)には長年の懸案であった電話事業の官営営業開始も決議している。逓信省の基本を作り上げた逓信大臣と言えよう。
その後文部大臣・外務大臣・農商務大臣等を歴任明治初期の日本近代化に貢献した。

そして前回投稿でご紹介した志田林三郎を含めて「逓信七賢人」と呼ばして頂きたい。

志田 林三郎(1855 安政2~1892 明治25)
志田林三郎は電気通信の祖

2021.12.1異見・卓見「日本電気通信の祖 志田林三郎」を参照されたい。

幕末鎖国時代に発覚すれば打ち首となるリスクを潜り抜けイギリス等に密航を企て技術・制度等を学んだ石丸安世・寺島宗則・井上勝、また江戸幕府時代、明治政府での派遣留学生であった榎本武揚・志田林三郎、日本近代化の父とも言える前島密等の心意気・行動力に敬意を表するとともにそんな使命感に富んだ日本人が明治以降の日本を作ったことを我々は忘れてはならないであろう。最近日本の世界での地位が下落傾向にある、今の若者に令和の時代の心意気を期待したいと思う今日此の頃であります。

本稿をまとめるにあたり以下の書籍をも参考にさせて頂きました。
・日本経済評論社 松田裕之著 明治電信電話ものがたり
・日本図書センター 前島 密 前島密自叙伝
・慧文社 多久島澄子著 日本電信の祖 石丸安世
・PHP 江上剛 著 クロカネの道 鉄道の父・井上勝
・図書刊行会 高橋善七 著 日本電気通信の父 寺島宗則
・岩波ジュニア新書 黒瀧秀久 著 榎本武揚と明治維新

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