■ 三原種昭氏プロフィール
三原 種昭(昭和14年 1月31日生)
昭和37年 3月 早稲田大学第一理工学部電気通信科卒
同年 4月 日本電信電話公社入社
平成 3年 6月 NTT取締役九州支社長
平成 7年 常務取締役
平成10年 6月 NTTコミュニケーションウェア㈱社長(現 NTTコムウェア㈱)
平成13年 6月 大明㈱社長
その後会長・相談役を経て
平成24年 6月 ㈱ミライト名誉顧問
■ コラム
皆さん志田林三郎をご存知ですか。日本の郵便制度を確立したのは前島密「日本郵便の祖」と言われております、ご存知の方も多いと思います。
これに対して志田林三郎は「電気通信の祖」と言われても良い人物ですが残念ながら余り知られておりません。36歳の若さで早逝されたのも一因かもしれません。
平成4年10月17日佐賀県は多久市の中央公民館で志田林三郎没後100年を顕彰するシンポジュームが開催されました。その時私はNTT九州支社長として在席しておりましたがこのシンポジュームに出席して志田林三郎の偉大さを知ることとなり我々情報通信の大先輩としてもっと顕彰すべきとその後の私の講演等で機会あるごとに紹介させて頂きました。
今年NHKの大河ドラマ「青天を衝く」は明治維新に日本の社会の基盤を創成させた渋沢栄一を主人公に展開されておりますが、この志田林三郎も同じく明治時代に技術的にも行政的にも日本の電気通信の基礎を作り上げた人物でしょう。
大河ドラマを観るたびにその偉大さをまた思い出しましたのでこの機会にICTサポートホームペ―ジ「異見・卓見」へ寄稿させて頂きました。
渋沢栄一が日本の近代化に対して民営企業の創造を勧めたのですがそれに対して志田林三郎は駅逓(郵便事業)が農商務省主管であり、電信事業が工部省主管であったのを「電信と郵便を一括経営し無駄をなくすべし」と合併建議書を提出し逓信省が誕生します。また後年電話事業について渋沢栄一が民営化論を勧めたのにたいして志田林三郎は、多分民営では国家のセキュリティ維持とユニバーサルサービスの観点から問題あると想定したと思えますが、官営化を推奨し実現しております。これは榎本武揚逓信大臣、前島密事務次官、志田林三郎工務局長で実現しました。明治22年(1889)の事です。
志田林三郎は幕末ペルー来航の安政2年(1855)現在の佐賀県多久市に生まれ、生誕後すぐに父親が亡くなり母親に育てられ、佐賀と唐津を結ぶ街道沿いで母親が始めた「志田さん饅頭」の販売を志田林三郎は母親の手伝いをして饅頭の代金計算の速さと正確さで秀でており賢い子供がいると有名になり、その噂は当時の多久邑藩主多久茂族の知るところとなり藩主の前で難しい数学の問題を解答し藩主を驚かせました。藩としては人材育成の観点から士族の子弟では無いが藩校「東原庠舎」に入学させ数学だけではなく儒学・漢学の素養を身に着けさせました。藩校でも成績優秀で鍋島藩の知るところとなり鍋島藩藩校弘道館に進学しました。明治4年(1871)志田林三郎16歳である。当時鍋島藩は長崎出島の管理等を任されており長崎を経由して海外の技術を積極的に取得しており、国内最初の反射炉の建設も実施している。後に電信頭として活躍する鍋島藩士石丸安世は英国商人グラバーとの親交も厚く幕末鎖国の中グラバーの手引きで英国に密航留学したとの記録もあります。志田林三郎はこの石丸から英語を学んだようである。
藩校弘道館でも優秀な成績を収め志田林三郎は選ばれて官費留学東京工学寮に入学する(明治5年(1872))。工学寮は後年工学校となりさらに東京大学工学部となる。工学寮は日本近代化の技術者育成の観点から創立されたものでありイギリスから教授が招聘されていた。志田林三郎は電信科を専攻し指導教官ウイリアム・E・エアトンの下、その助手的働きもしたと伝えられている。西南戦争の時今流に言えばドローン、熊本で軽気球を飛ばし空から戦況を偵察する企画等にもその責任者として参画している。また青森―函館間の海底電信線の修理にも参加している。
明治12年(1879)首席で卒業するとともにイギリススコットランドグラスゴー大学への留学を命ぜられる。同時期には同じく工学寮卒業の辰野金吾(建築・東京駅設計 同じく佐賀唐津の出身)高峰譲吉等も留学している。
明治13年(1880)24歳の志田林三郎はグラスゴー大学でケルビン卿に師事しました。ケルビン卿(ウイリアム・トムスン)は19世紀における物理学全般を指導した英国有数の学者であり絶対温度の提唱など物理学会の第一人者であった。その指導の下志田林三郎は遺憾なく実力を発揮し「帯磁率の研究」で最優秀論文賞である「クレランド金賞」に輝きさらに物理・数学の試験でも賞を受賞わずか一年の間に素晴らしい成果を収めている。
ケルビン卿は志田林三郎をこよなく愛し「私が出会った数ある教え子の中で最も優秀な生徒だった」と評している。一年間のグラスゴー大学の留学の後グラスゴー中央郵便局で研修を受け、パリの電気万国公会に参加したあと帰国留学生活を終えている。工部大学校でのエアトン・グラスゴーでのケルビン志田林三郎に大きな影響を与えた英国の物理学者のおかげで明治日本の通信体制の基盤が出来たのではないであろうか。
明治16年(1883)英国留学から帰国し工部大学校の電気工学科の教授に就任(27歳)、明治21年(1888)には我が国第一号の工学博士を授与されている。
一方行政官としては工部省電信局に勤務し逓信省建議書「駅逓電信両局合併之利益並駅逓院新組織」を提出し明治18年(1885)逓信省が創設されている。
明治19年(1886)逓信省逓信小技長となり電信業務を指揮する他マルコニーの無線実験より10年以上早く水を伝導体として導電式無線通信の実験を隅田川で実施したとの記録も残っている。
明治21年(1888)志田林三郎は電気学会を創設し榎本武揚逓信大臣を会長に据え創立の会合で将来実現される技術の予測「将来可能となるであろう十余のエレクトロニクス技術予測」を講演している。
① 一本の電線で毎分数100語の速度で同時に数通の音声を送受信する時代が来るであろう。
② 海や川で隔てられた数理の遠隔地間で自在に通信や通話をする時代が来るであろう。
③ 音声伝送の方法がますます進歩し、例えば大阪長崎は言うまでもなく、上海香港のように数100里離れた場所で演じられる歌や音楽を東京において居ながらにして楽しむ日が来るであろう。
④ エネルギー伝送技術も益々巧みになり、例えば大きくは米国ナイアガラの水力をニューヨークに伝送し電灯に変えて全市街を不夜城とすること、小さくは我が国日光山華厳の滝のエネルギーを東京に伝送して東京市街に電灯を灯し、あるいは馬車人力車等を運転するといった奇観を目にすることも遠い日のことではないであろう。
⑤ 陸に電気鉄道、海に電気船舶を使うことが増え、黒煙白煙を吐かない鉄道列車や水路船舶を見る日が来るであろう。
⑥ 電気飛行船の改良により航空技術が高度化する結果、飛行船に乗って空中を散策し、山紫水明の地を訪ねたり名所旧跡を探索したりする日も来るであろう。
⑦ 更に一歩を進めて学問的な思索を巡らせば、物理学者たちは、光もまた電気、磁気、熱と同様にエネルギーでありただその種類が異なるだけだと深く信じている。従って電気や磁気の作用によって光を遠隔地に輸送し、遠隔地にいる人と自在に互いの顔を見る方法が発明されることもあながち夢ではないであろう。
⑧ 電話機の原理によればどんな音声でもその音調性質はすべて電気の波動に変えることができる。またトムソンの毛管自記機の原理に照らせば、電気の波動を自記(自動記録)することも可能なはずだから音声を自記(録音)して演説談話その他いかなる音声でも機械仕掛けによってこれを記録する方法が発明されるであろう。
⑨ 地電気、地磁気、空間電気は互いに密接に関係しているだけでなく、地震、太陽黒点、極光(オーロラ)及び地球上の気象等にも関係するものなので、地電気、空間電気の変動等を観測することによって地震を予知したり穀物の豊作凶作を予知したりする方法が発明されることを期待するのも無謀なことではない。
これを130年以上前に予測していた、日本で電話サービスが開始される2年前である。このほとんどが現在実現している、驚くべき慧眼である。
コンピュータ・インターネット等現在のICTについては触れられていないが物理学に立脚した予測にはそこまでは及ばない、志田林三郎がもっと長生きされれば必ずや現代のICT・IOTの世界も予測されていたことと思います。
明治22年(1889)逓信省初代工務局長となる。
アメリカで電話が発明されたのは1876年(明治9年)そして日本で電話サービスが開始されるのは1890年(明治23年)10年以上の年月が経過している、この間渋沢栄一を中心として民営化論が強い中議論を進め、志田林三郎が中心となって榎本逓信大臣・前島次官・志田工務局長のラインで官営化を推進したとされている。
しかしこの後逓信大臣が後藤象二郎に交代し逓信省内の権力抗争か、明治24年(1891)に志田林三郎は非職(地位はそのままで職務だけ免ぜられる)となり逓信省を去っている。その後電気学会の職務に関係するが健康を害し、明治25年(1892)逝去となる。志田林三郎36歳の若さでその一生を閉じられたのである。
平成4年(1992)10月の「志田林三郎没後100年の顕彰シンポジューム」の後平成5年(1993)に郵政省は「志田林三郎賞」を創設し毎年6月1日の電波の日に情報通信の発展に寄与した人が表彰される事となった。
また平成23年には上野の国立科学博物館の近代科学の偉人を顕彰するコーナーに志田林三郎のレリーフが追加された。
歴史に「もし・・・」は無いが「もし志田林三郎が長生きされたら」「もし志田林三郎が存在しなければ」を想像すると何が見えてくるであろうか。
逓信省は昭和24年(1949)に郵政省と電気通信省に分離し、電気通信省は昭和27年(1952)に電電公社に、そして昭和60年(1985)民営化し日本電信電話株式会社に、また郵政省は平成13年(2001)に総務省と郵政事業庁に、そして平成17年(2005)に日本郵政株式会社に民営化されました。
これから100年後の情報通信を予測する第二の志田林三郎の出現を期待したいところである。
本稿は旧逓信総合博物館志田林三郎コーナーの資料を中心に記述いたしました。
また志田林三郎に関する書籍としては以下の2点があり参考にさせて頂きました。さらにご関心のある方には一読をお薦めいたします。
・「先見の人 志田林三郎の生涯」 信太克規 著 ㈱ニューメディア
・「志田林三郎 傳」 信太克規 志佐喜栄 共著 電気学会
また佐賀県の宮島醤油株式会社のホームページの中「去華就実と郷土の先駆者たち」にも志田林三郎についての詳細な紹介がなされています。