はじめまして。私は、情報通信技術に関する企画・事業運営に関する団体に勤務し、およそコラムの執筆などとはほど遠い仕事に従事しておりますが、思いがけず今回「シニアに贈る言葉」というお題を頂戴しました。これも一つの貴重な経験かと思い、稚拙ではございますが、これまでの経験を交えて文章にしてみました。
二十数年という年月をサラリーマンとして過ごしていると、チームを組んで一緒に仕事をしたり、様々な仕事上の関係でお世話になったりすることがあり、たくさんの方との交流が生まれる。そのような仕事上のお付き合いをする中で、直接的に助言や励ましの言葉をいただくことも多くあり、どの様な言葉でも誠意をもって投げかけられたものであれば心にしみるありがたいものである。しかし、私の場合、より強く印象に残るのは、実はそのような直接的な言葉や働きかけでなく、その人の仕事に対する態度や振る舞い、行動であったりする。
A氏は、私が新入社員として入社したての頃、隣の部署の係長をしていた。当時の私よりは年上の30歳前後くらいの男性社員であり、同僚に近い先輩と言ったところである。見るからに気力に満ちた明るい人柄で、職場の誰とでも分け隔てなく気楽に接してくれるので、若手社員の間ではとても評判が良かった。私は当時の自分の担当業務と部署の違いもあってA氏から直接の仕事上の指導助言を受けるようなことはなかったものの、職場の懇親会や日常的な交流の中で親しく雑談することは比較的多かったと記憶している。ただし、多くの日常会話がそうであるように、それらの会話そのものが特段心に残っているとか、感銘を受けたというわけではなく、また、本人も率先して教訓めいた話をしたがる性質の人でもなかった。私たちの交流は、どちらかというと淡々とした日常的な職場に限定したものであった。ただ私にとって印象に残っているのは、A氏の仕事に対する熱意と前向きな取り組み姿勢に、いつも新鮮な感動を覚えていたということである。私を含め新入りの社員に対してはいつも笑顔で丁寧に対応してくれた。決して仕事一辺倒というわけでも無く、冗談を交えた雑談をするところも良く見かけたものであるが、職場内外を問わず誰とでも仕事上の議論も良くしていたようである。また、感情的になって口論するということはないのであるが、比較的長身のA氏は背筋をすっと伸ばすと職場のどこにいても目立つこともあってか、相手が上司であろうが他部署の社員であろうが、ものおじする様子も無く大部屋にも響き渡る声で議論しているところは何度も見かけたものである。あるときにはめずらしく、上司と仕事上で対立したのか、口論に発展したとのうわさも聞こえてきた。いかにも仕事熱心なA氏らしいことだと若手社員の間で話題になっていた。
やがてA氏も私もそれぞれ離れた部署に異動して数年が経過した。一時的な仕事上の交流であれば、一旦、部署が離れてしまうと、よほどのことが無ければ疎遠になってしまうものである。ご多分にもれず、その後、A氏とは会うことも連絡を取ることも無く過ごしていた。そんなあるとき、ふとしたことでA氏が会社を辞めたという情報が流れてきた。特に強い交友関係を維持していたわけではないので、会社を辞めたという情報がただのうわさで流れてきたことも不自然ではないのだが、不思議にその辞めたという事実に、よくわからない衝撃のようなものを感じた記憶がある。かといって、「なぜ」と、辞めた理由を本人に問い質したいという気持ちでもない。職業選択の自由。そんなことは当たり前であるし、仕事を辞める理由も人それぞれであり、いちいち詮索する気はない。
新入社員が、人格才能ともに優れた優秀な先輩社員にあこがれる。しかしその先輩社員は優秀であるがゆえに転職してしまう。という、いまやテレビドラマにも出てきそうにも無い、都会の職場であればどこにでもある話かもしれない。しかし、このような職場における人生模様は新入社員として経験するとやはりインパクトがある。
その後もしばらくはA氏のことが心の中でもやもやとする中、まだ若い頃に読んだある小説のことを思い出した。
誰しも経験すると思うが、学生時代に小難しい本を読んでみたくなることがあるものだ。そんなときにふとしたことから初めて手にした本がトルストイの「光あるうち光の中を歩め」であった。本書に対する私の浅はかな理解では、人生それほど長くはないのだから後悔しないように生きているうちにやりたいことをやっておけ、と言うところであろうか。
まだキリスト教徒が迫害されていた時代、ローマ皇帝トラヤヌス支配下の小国で豪商の息子として生まれたユリウス少年。ユリウスは、成人し年老いてゆくまでの人生の中で、欲望や野心、功名心などにまみれる俗世間に失望し幾度となくキリスト教の世界に走ろうと志しながらもそのたびに俗世間に舞い戻る。そして、ついにたどり着いたキリスト教徒の下に安住の場所を得るという物語である。新潮文庫の同書巻末解説によると、キリストの教えに従って生きよと説いたトルストイの思想を表現した奥深い文学作品であるらしい。信仰心のかけらもない私などにとっても共感できる日常生活における人生の教訓書として、時々思い出したように読み返す愛読書のひとつである。
「光あるうち光の中を歩め」とは小説のタイトルではあるが、おそらくは普遍的真理を現す言葉として、人口に膾炙している名言・格言と言っても過言ではないと思う。この言葉が意図する本来の宗教的意味合いからは外れるのであるが、日常生活で自分はどのように行動すべきかと思い悩んで行き詰まったとき、不思議とこの言葉が浮かんできて何かと勇気づけられる。
それなりの年月をサラリーマンとして過ごしていると、あのA氏のように幾人かの先輩や同僚が転職し、また、中には起業してゆく人たちがいる。転職するにしても自ら起業するにしても、その動機や理由は人それぞれである。恐らくは少なからずリスクを背負うことにもなるのであろう。新天地を求めて一歩踏み出す覚悟は相当なものであるに違いない。そのような場面に遭遇すると、あの言葉が脳裏をよぎる。誰しも悩みを抱えつつ光の中に踏み出すべく覚悟と勇気で行動している。
シニア世代はある意味退職というイベントを通して、人生の長い道のりの中で光の中に踏み出す事の出来る立場にある。シニアの皆さんには、自らが新しい世界に踏み出すことで後進に勇気を与え続けてくれることを期待する。
ちなみに、かのA氏は転職先で大変ご活躍中とのことである。きっと光の中を歩んでいることと思う。