第3回
〜 諦めた時が負けた時(前編)(シニアからのメッセージ) 〜
畚野信義

■ 畚野信義氏プロフィール

畚野信義氏は1961年に郵政省電波研究所へ入所、1971年に工学博士号取得。
1972年米国科学アカデミー研究員、1974年電波研究所衛星研究部主任研究官、1989年通信総合研究所(旧電波研究所)所長に就任、1993年郵政省退官。
その後、1993年から1996年にかけて、東海大学、米国テキサスA&M大学、メリーランド大学、東京大学等において客員教授、2001年(株)国際電気通信基礎技術研究所代表取締役社長、2009年奈良先端科学技術大学院大学理事等を歴任。
この間、日米共同開発プロジェクトとして、「熱帯降雨観測衛星(TRMM)」の計画段階から開発・打上げ運用段階にいたるまで主導的役割を果たした。
また優れた研究業績に対する科学技術庁長官賞をはじめ、武田賞や紫綬褒章、さらに米国NASAから民間人に贈る最高の賞と言われている「Distinguished Public Service Medal」を日本人として初めて受賞するなど、数々の研究功績賞を授与されている。


コラム(前編)

田中社長から「経験豊富なシニアがこれまで歩んで来た長い人生の中で【塞翁が馬】のように失敗が成功の引き金になったり、或いは逆に成功と思ったことが実は失敗の始まりだったりという、経験談を」という注文があった。

私は今日(2016年3月16日)丁度八十一歳になった。誰が見ても確かに長い人生を歩いて来たと見えるはずだ。しかしこの「長い人生」という表現は本人には少々ショックだった。喘息で何度も死にかけ、小学校も落第した私は80歳まで生きるなどとは思ってもいなかった。

振り返ってみると、ウマク行くと思ったものがそうではなかった(失敗だった)ということは数多い。それをここで縷々書いても仕方ない。研究とはそういう仕事である。ウマク行くはずのことをウマクやって見せるのは研究とは言わない。自分の研究以外で期待通りに行かなかった代表は「我が国(特に国研)の研究環境の改革」であった。しかしこれはマダマダ生臭いことが多く、ここで書くのは時期尚早と躊躇われる。モシ百歳まで生きるようなことがあったら書くことにしよう。そこで、世間ではカナリよく知られてはいるが、ウマク行くかどうか全く見通しがないママ(無理かもしれないと感じながら)ガンバッテいるうちに突然思いがけなくウマク行った(行ってしまった)ことを書くことにする。それは熱帯降雨観測衛星(TRMM:Tropical Rainfall Measuring Mission)計画である。

TRMMは主観測機器(衛星搭載降雨レーダー)と打ち上げロケットを日本が、衛星と他の観測器をアメリカが担当した日米共同衛星計画である(外国の衛星を日本のロケットで打ち上げた最初の例でもある)。

TRMMは打ち上げ(1997年11月)後17年間以上観測を続け、2015年半ばに軌道制御用燃料が尽きて大気中に消滅したが、その1年前(2014年3月)には後継機GPM(Global Precipitation Measurement)がTRMMと同じ日米の分担で種子島から打ち上げられた。私も種子島で立ち会うことが出来た。TRMMの成果はアメリカでは日本以上に非常に高く評価されており、打ち上げにはケネディー大使、NASA副長官等も参加した。その日の種子島は夕方まで強い雨が降った。そのため深夜の打ち上げ時には空気が澄み切っていた。私は1961年に学校を出て電波研究所(RRL:Radio Research Laboratories)に就職し、その年の7月の秋田道川海岸以来、日米で100機以上のロケットの打ち上げを見て来たが、これほど長く、高くまで地上から見ることが出来たのは初めてだった。

ここで紹介するのは、ただこのTRMM実現のための努力の経緯だけでなく、何かの運命のようにこの計画に引き寄せられた私の研究人生の履歴である。

1960年代後半からRRLは電離層観測衛星(ISS)、実験用静止通信衛星(ECS)などの計画を始めた。その頃私は東大の観測ロケットや衛星を使った上層大気の研究をしていた。1972年3月からアメリカの科学アカデミー(National Academy of Science)のPostdoctoral Resident Research Associate(言わばポスドク)としてNASAのGoddard Space Flight Center(GSFC)へ行き、1974年5月に帰った時のRRLは、更にCS(実験用中型通信衛星)、BS(実験用中型放送衛星)、ETS-II(日本が最初に静止衛星軌道へ打ち上げる実験衛星でECSの予備実験としてミリ波の伝播実験を行った)を抱えており、電波研の毎年の新採用者は研修が終わると全員が即時に鹿島支所へ配属される状態であった。私はトロッコのレールに新幹線を走らせていると皮肉っていたが、私にも、「お前はズット好き勝手なことをやって来たのだから、通信衛星を手伝え」というトバッチリがやって来た。イロイロ考えた末、10年余りやって来た電離層通信(地球物理)から衛星通信に商売替えすることにした。その理由を今改めて整理して考えてみると、私が学校を出てRRLへ就職した頃の長距離通信は短波に頼るしかなかったが、通信衛星が実用化され、これからの通信の研究はそれまで主流だった電離層・上層大気・太陽地球間物理から変わって行くという実感があったことは確かである。しかし私の気持にはモット本質的なものというか底流があった。私の教育のバックグラウンドは電子工学である。それが就職して地球物理が主体の世界に入った。電子工学は言わば数学・物理の世界で、再現性の無いことは信用されず、学会の発表でも全く受け入れられない社会である。一方地球物理は言わば博物学であって、完全に同じことは二度と起こらない世界である。学会でも二つの現象の時の地磁気の変動のデータ(今はデータもディジタル処理され、結果は綺麗に画像化されて示されるのかも知れないが、当時は汚いペンレコーダの軌跡そのままだったこともあったかとは思うが)を並べ、上と下がこの辺で似ているとか似ていないとかなどと言う話が罷り通っていた。「これが学会で発表する研究(学問)か」という違和感がズット心の底に残っていて(キザな言い方をすれば、通奏低音のように聞こえていて)、私の決心の背中を押したような気がしている。

私はETS-IIとECSを担当することになった。すぐの実用化を目指していたCSやBSと違い、将来ミリ波の衛星通信を実現するための確かな研究要素のある計画であること、中心のミリ波の伝播特性の解明には自然現象(降雨や大気)が関わるサイエンスとしての研究のニオイがあったことも気に入っていた。

それまでの地上波の電波伝播特性(特に降雨減衰)の研究は、一定の距離を離して置いた送受信機の間の伝播経路の下に降雨計などを並べて長期間(少なくとも10年程度)観測し(データを採り)、統計的な処理をして結論を出すというのが主流であった。しかし公称寿命1年半のETS-IIではこの方法は取れない。また衛星通信の電波の経路は地上伝播の経路とは異なり、そこでの自然現象(降雨や大気の状態)も全く違う。そこで降雨の観測にレーダを使うことにした。全天空を僅か2分間でスキャンし、任意の断面や任意の電波伝播経路の降雨強度分布を即時に示せるという優れ物であったが、現在と比べると当時(40年以上前)のエレクトロニクスの技術はハード、ソフト共に十分進んでいなかったというより現在に比べると幼稚な状態であった。ディスプレーさえカラー表示が出来ず、トレースや色塗りにアルバイトの女性を多く必要とする有様だった。増してやレーダによる降雨の定量的な観測が出来る保証はなかった。当時の電波伝播の研究者達からはそんなもので得た結果は信用できないとクソミソに非難、反対された。更に予算計画にはレーダを造る金は勿論入っていなかった。

当時の宇宙関連の予算は経験の全くない計画について手探りで中味の試算をして、それにリスク(予測出来なかったことが起こった時)に対処するための安全係数をかけるようなアバウトなやり方で算出し、確かな根拠のない財政当局の査定を経て決まった予算額がスタートラインになった。メーカーが最初に予算額の倍くらいを吹っかけて来ることから始まり、スペックダウンしながら交渉(取引)して、予算内に収めるというのが普通だった。メーカー間での裏の交渉もイロイロあったのではないかと思われる。全く経験の無い新しい開発をするためにはそういうやり方も必要な(そうでないと無理が出て来て長続きしない)ことは私もよく分かっていた。しかし私はETS-II,ECSの地上実験局建設について一切事前の交渉をせず、完全競争入札(タタキ合い)にした。最初の見積もり額はどのメーカーのものも予算の2倍程度だったが、入札の結果は予算より大幅に低い価格で落札され、降雨レーダを造る金が出来た。ところが当時は降雨レーダを使って(持って)いたのは気象庁しかなく、降雨レーダを造っていた我が国の主要3社はお互いに仲良く共存共栄していたようだった。その平和なコミュニティへRRLが割り込んで最先端の機能と性能の降雨レーダを造ろうとしたのだから、今までの秩序を壊すことになり、上を下への大騒動になった。私は「天の声を聞かせろ」という業界の攻勢を逃げて志賀高原へスキーに行ったが、高天原というゲレンデで転倒し転げ落ちた。帰って来ると幸い受注メーカーは決まっていた。徹夜で真剣に話し合った結果だということであった。

ETS-II搭載の伝播実験用送信機がミリ波に至る倍数関係の3周波がコヒーレントを保つという優れた設計(RRLからNASDAへ行かれた木戸さんの発想と聞いている)だったこともあり、実験結果は自分でも自信の持てるものだった。サンディエゴの学会で発表結果をしたが、発表の前夜遅く座長の補佐から時間が足りないからスライドを減らせという電話があり、明け方まで考えて3分の2くらいにして翌日話し始めるとスグに座長からモット詳しく聞きたいと注文が入り、スライドを全部戻して2倍くらいの時間をかけて話した。講演が終わると当時飛ぶ鳥を落とす勢いのベル研や空軍のシンクタンクなどから講演依頼が殺到した。しかし当時の(今もなお?)出張はスケジュールが完全に固定された超ディスカウントの大韓航空で、受ける余裕はなかった。

翌年2月のECSの打ち上げはアポジーモーターの不具合で失敗した。その直後に翌年度(4月)から新設を認められた衛星計測部(衛星通信のポストプロジェクトとしてリモートセンシング等の研究を行う)への異動の打診があった。それでは自分が苦労して準備した実験が出来ず、その成果を得られなくなるという不満はあったが受けることにした。その理由はふたつあった。ひとつはGSFCにいた1972年にERTS(後のLANDSAT-1)が打ち上げられた。当時の分解能は80mでしかなかったが、初めて宇宙から見た地球は目を見張るものがあった。特にこのERTS計画の責任者のNordbergと仲良くなった。彼は自分の名前は日本語では「北山」だと言っていた。シカゴ大で同僚だったDr. Fujita(シカゴ大教授、トルネード研究の第一人者で、離着陸時に飛行機が突然墜落するダウンバーストを発見したことでも有名)に教えて貰ったと言っていた。そんなせいで日本人の私に仲良くしてくれたのかもしれない。彼はイロンナことを教えてくれた。サハラ砂漠はドンドン南進し問題になっていたが、何故かそれが止まっているところがあった。地上で調べに行くとタダ簡単なフェンスが張ってあっただけだったそうである。宇宙から地球を見ることで今まで分からなかったことがドンドン見えて来るということが実感された。日本へ帰ったらリモートセンシングをやりたい、特に電波を使ってやりたいと思うようになっていた。その後SEASATに映像レーダ等の電波センサーが搭載されたのにはしてやられたという強い気持ち(焦り)があった。そしてもうひとつの理由(というより予感)があった。私がRRLへ入所した1961年は糸川さんが国分寺の中央線沿いの地(現在の早稲田実業高校敷地)でペンシルロケットの実験を始めて僅か数年後、まさに我が国の宇宙開発の黎明期だった。それ以来見て来た宇宙開発、特にロケットの打ち上げは非常にリスクの高いものであった。ECSはもう一度失敗するのではという予感があった(ような気がする)のである。

後編へ

異見・卓見 一覧へ