第7回
〜 ハリウッド受難の時、“ダルトン・トランボ”の戦い 〜
スクリーン憧子

 アメリカ映画の好きな方ならダルトン・トランボをご存知であろう。近年とみに注目されて来ているのは嬉しいことである。アメリカ映画の戦後史を語るとき彼の存在なくしては語れない歴史の側面が存在する。
彼がアメリカ映画界に残した足跡を紹介し、類まれな才能を持つライターとして活動しながら、第二次大戦後アメリカの政情の変化によってその身に降りかかった迫害に負けず、不遇をいとわずアメリカの自由とアメリカのあるべき姿を守るため活動を続けた姿を述べていきたい。
自分の名前を堂々と出して発表できなかった歴史の背景、アメリカ史の暗部、ハリウッド受難の時、その迫害の中で必死にライターとしての活動を続け、ついには復活していった姿を語りたいと思う。

1.脚本の重要さ

 以前から興味があったアメリカ映画「東京上空30秒(原題:Thirty Seconds Over Tokyo)」(1944年作)を最近観る機会があった。太平洋戦争開戦後しばらくの間日本は破竹の勢いで勝ち進んでいきアメリカから見れば日本は恐るべき強敵、堅塁を誇っている最強軍だった。この映画は1942年4月に初めて最強国日本の首都東京を空爆する爆撃隊の決死の作戦と訓練、兵員たちの緊張と背景を見事に描いている。
日本との接触がない中で東京の詳細の地形や爆撃目標を正確に把握して作戦が立てられていたことが分かる。余りの出来栄えの良さと敵国日本の情報把握の見事さに感心し驚き、誰がこの脚本を書いたのか・・・調べて二度びっくりした。なんとダルトン・トランボだったのである。えっ、あのダルトン・トランボがこんな時期に・・・というのが第一印象だった。スペンサー・トレーシー、ヴァン・ジョンソンなど人気俳優の他まだ脇役だったロバート・ミッチャムが出演している。
1942年の東京の街路や建築物の配置が見事に捉えられており空爆を実施するための敵地の状況が完璧に把握されていたのに驚くとともに脚本家ダルトン・トランボがこの情報を得て脚本を作成していたということは信じ難かった。この極秘情報を得たトランボは彼独特の優れたストーリー構成力を発揮し緊迫感あふれ、人間の情愛も巧みにとらえた脚本を書いていたのである。映画における脚本家の役割の大きさに改めて感じ入ってしまった。
映画作成には、まずストーリーがあり、製作者、監督、俳優・・・と続くが重要なのは脚本家、これが映画の完成度、内容を完全に支配すると思われる。
世界の映画界でも高く評価される小津安二郎監督も脚本を殊に重要視しておられた。自身が脚本を書いていることもあって「脚本は絵であり、数か月かけて脚本を書きあげた時、映画の八割方は出来上がっているものだ・・・」という表現をしておられる。

今回テーマにした「ダルトン・トランボ」は戦中、戦後のアメリカ映画の中でその脚本のために自らを捧げ、戦後アメリカの不幸な政治環境の中で迫害を受けながら、それにひるまず意思を貫徹した鉄人と呼ぶにふさわしい人物である。今回のテーマは彼が映画界で果たした脚本家、映画人としての見事な業績を迫害を受けた背景と対比しながら語っていくことにしたい。

2.ハリウッドに吹き荒れた「赤狩り」の嵐

 1929年の大恐慌発生後、1930年代にドイツにファシズムが台頭し、アメリカでは数千人が共産党に入党した。知識人の中には共産主義を理想の体制として評価する動きもあった。さらに第二次世界大戦中に米ソが同盟を結ぶと入党者は増加し、ダルトン・トランボも1943年に入党した。「東京上空30秒」の脚本はこの頃に書かれたことになる。彼は映画人たちのための労働運動も行っていた。
しかし、第二次世界大戦終了後の冷戦がはじまるとそれまでのソ連との同盟関係は一変し、ソ連は敵国となり共産主義者は疑惑のまなざしを向けられるようになった。
ジョセフ・マッカーシー上院議員が指揮する「非米活動調査委員会」の聴聞会が大きな権限を与えられ、国を挙げて共産主義阻止と共産主義者排除に向かっていく。マッカーシズムである。
その追及の手は厳しく米国のあらゆる階層、組織に向けられたが特に影響の大きい映画界は効果を狙う上で格好の標的となった。
ハリウッドテンはその象徴的な存在である。赤狩りに抵抗したハリウッド映画界の中で特に10人は聴聞会で証言を拒否したことにより議会侮辱罪に問われハリウッドを追われた。ハリウッドテンにはダルトン・トランボ初めエドワード・ドミトリクのような著名な監督も入っている。
共産党員を知っていてその名前を委員会に教えればつまり密告すれば追及されないという卑劣な手段も使われこれに協力して友人を売り自らは逃れた者もいる。映画界は大混乱に陥った。
1954年までに約1万人が職を失い、約250人が国外脱出、約150人が投獄されトランボも1950年4月から10カ月間投獄され、その後は脚本家の活動を絶たれることになった。

3.追放後のトランボ

 トランボにとって唯一の救いは彼が脚本家という正面に出なくても仕事が出来たことである。彼の能力を必要として彼を利用してくれる人達のおかげで脚本を書き続けることができた。
 当然、偽名を使っての活動であるが彼の能力の高さは、ロバート・リッチという名前で書いた「黒い牡牛」(原題:The Brave One-1956年作)という作品で発揮されなんとアカデミー脚本賞を受賞してしまった。(勿論授賞式にロバート・リッチは欠席した)
 この作者がダルトン・トランボであると公式に告げられたのは1975年である。1975年にダルトン・トランボの名前が書かれた「黒い牡牛」のオスカーを受け取った
生活のためにはやむを得ずBC級の作品を低金額でやらざるを得ずまたトランボが書いたと分かれば発注者も処罰され迷惑をかけることになる状況だった。
だがトランボの脚本家としての優れた能力を映画界は必要としていた。

今から3年前の2015年にトランボを主役にした「ダルトン・トランボ」という映画が作成されこの頃の状況が描かれている。ダルトン・トランボの脚本ではないかと疑われ非米活動調査委員会から調査員が訪れたときその発注者は「トランボを使って何が悪いか・・・」と開き直り調査員を叩きだす。ハリウッド映画人の心意気を感じた痛快な場面だった。

4.ウィリアム・ワイラーと「ローマの休日」

 少し話題を変えるが、同じ時赤狩りの追及を受けた一人がウィリアム・ワイラー監督である。
息詰まるハリウッド赤狩りの汚なさを嫌悪したワイラーはそこから離れたい気持ちが強くなり、ついに赤狩りの被害者を何人もローマへ連れて行き、長期・完全な海外ロケ制作を決意した。3ヶ月間に亘る完全に自由な海外ロケをローマで行ったのである。
そして誕生した映画が「ローマの休日」だった。1953年に公開されたが半世紀以上経った今でも世界中から愛されている名作、どんな視点から評価を募っても常にベスト上位にランクされている。
オールディーズの映画を知らない若い世代でもこの映画は知っていて時代を超え最も愛されている映画であることが分かる。
ワイラーはこの映画にダルトン・トランボの原作を使い脚本を依頼した。ひそかな赤狩りへの抵抗でありトランボの生活を応援することもできる。
名前は出せないので脚本はイアン・マクレラン・ハンターという実在の人物を替え玉として担当させた。この映画でオードリー・ヘップバーンはアカデミー主演女優賞を受賞し脚本もまたアカデミー賞受賞の栄誉に輝いた。
脚本が本当はダルトン・トランボであったことはずっと後に公表されたから「ローマの休日」がトランボの脚本であることを知っていたのはワイラー監督の他ごく一部の人たちであった。
前述の「黒い牡牛」と共にトランボはアカデミー賞脚本賞を実に2回受賞したことになるがいずれも自分の名前ではなかった。
 赤狩りというハリウッド受難の時、ワイラーが国外制作を決意しトランボが全力を投入して作り上げた脚本の良さがなければ生まれなかった作品であり、負のハンディが大逆転を生んだとさえいえるかもしれない。
 ローマを舞台にした数多い映画の中で最もローマを美しく、魅力的に描いた作品と評価されるがワイラー監督はこの時代にふさわしい強いメッセージを込めそれが映画のテーマになっている。
 最終場面、アン王女と各国の記者が出席する公式の会見場で描かれるアン王女と新聞記者ジョー(グレゴリー・ペック)の信頼の証は、簡潔な、しかしお互いだけに通い合うメッセージを込めて発せられる。二人のそれぞれの言葉で表現され確認された信頼の姿は美しく観るものの心を打つ。
 ジョーの友人の写真家(エディ・アルバート)もまた超特ダネの写真を持ちながらカネにせず、ジョーとの友情を守った。
 ハリウッドで吹き荒れていた不信と裏切りの時代にワイラーはアメリカへの信頼をこの映画で描きたかったのである。友情と信頼を強調しアメリカへの希望をうたったのであった。

5.トランボの復活

 「非米活動調査委員会」の執拗な共産主義者排除活動(マッカーシズム)はその後も続いた。中心人物であったマッカーシー上院議員は米国の中枢にいる人物でさえも恐れるほどの権限を持つようになるが法的な手続きを踏まず意にそぐわないものを共産主義者と決めつけ排除する手法に段々疑問を持つ声が広がって行く。
アメリカのジャーナリズムや委員会の標的になった映画界からも抵抗し糾弾する者が現われ勢いを失っていった。野心家だったマッカーシーは健康も害し去っていったが委員会の全米での活動は継続していった。
 映画界の実力者からもトランボへの期待が高まりカーク・ダグラスは自らが主演を務めた「スパルタカス」で、またオットー・プレミンジャー監督も周囲の猛反対を押し切ってトランボを脚本家として実名で登用した。
1960年公開の「スパルタカス」はトランボ排除論者である右派や軍人から強硬な反対があり上映反対運動さえ起ったが、当時のケネディ大統領が予告なしにこの映画を鑑賞し称賛したため大ヒットに繋がっている。
その後のトランボは自分の名前で映画界に復帰し脚本だけでなく監督さえも務め才能を発揮した。
名前さえ出せなかったトランボの不遇時代と復活後に公開され好評だった作品名は以下のとおりである。

  ① クレジット無しか別名で担当した作品
  ・「ローマの休日(1953年)」イアン・マクレレラン・ハンター名で脚本
  ・「軍法会議(1956年)」脚本、クレジット無し
  ・「黒い牡牛(1956年)」ロバート・リッチの偽名で脚本
  ・「カウボーイ(1958年)」脚本、クレジット無し
  ・「ガンヒルの決闘(1959年)」脚本、クレジット無し

  ② ダルトン・トランボ実名で担当した作品
  ・「スパルタカス(1960年)」脚本
  ・「栄光への脱出(1960年)」脚本
  ・「ガンファイター(1961年)」脚本
  ・「脱獄(1962年)」脚本
  ・「いそしぎ(1965年)」脚本
  ・「ジョニーは戦場へ行った(1971年)」原作・脚本・監督
  ・「パピヨン(1973年)」脚本
  ・「ダラスの暑い日(1973年)」脚本

ダルトン・トランボは1976年70歳で没した。

<スクリーン憧子>

映画・その魅力の数々 一覧へ