第5回
〜 伝統への期待を胸に(シニアに贈る言葉) 〜
通信建設会社勤務(A.K氏)

 大変貴重な機会をいただきました、なかなか執筆する機会などもなく筆不精の類である為、表現などもわかりづらいかと思われますが何卒お付き合いください。

 現在私は通信建設会社に属しており、18年目を迎えております。入社当初は平均年齢も低く、若い人材が多い環境でした。その為、社内ではシニア世代が少ない中、現場作業や調整の際に職人さんに教わる機会が多く、様々なシニアの方と出会いました。また会社が成長するにつれて、徐々にその世代の方々も増えコミュニケーションをとる機会が多くなりました。

・職人気質

 私どもの会社は工事会社の為、もともと現場作業が多く、様々な職人さんと一緒に現場作業を行い完成に導いていきます。そこで職人さん達は若輩者の私に豊富な経験と知識を惜しみなく投入してくれました。

 入社当初私は関西採用でしたが、東京で人員確保が必要とあって東京でスタートを切りました。その為地方から出て、地理的にも、仕事にも右も左もわからない不安感で業務につきました。
 それを知ってか、興味本位かはわかりませんが地方のイントネーションや新人が久しぶりだったのか? すごく親身に付き合っていただきました。

 そこでやはり学んだことは、職人として技術力を養うということもありますが私がすごく勉強になったことは、人の温かみに触れるということでした。
 当然職人さんですから仕事へのこだわりや、やり方にプライドを持って仕事をされておられますが、それよりも思いやりや、失敗をしてしまったときのフォローの必要性でした。

 入社当初は失敗続きでした。そのたびに先輩に叱られ落ち込んだことも少なくありません。そんな時周りにいた職人さん達にこんなことを言われました。自転車だって初めは転んで体で覚えて上達するのだから、転んで怪我して覚えることも重要だということです。
 これには驚きました、職人気質の方々はやって当たり前、しっかり仕事をこなして当たり前の考え方を持っているものと信じており、そのような考えを伝えられると考えてもみませんでした。本当は一緒になって叱りたいところ失敗から学んで次に活かせと言っていただいたことで少しは気が楽になり前向きで仕事に取り組めるようになりました。このことを活かし後輩達には「失敗はするものであり、失敗から学び、失敗を活かせ」と話しております。その為失敗を恐れず成長してくれるものであると信じて後輩の育成にあたっております。

・中学時代

 もっと遡った時の話をしましょう。このお話は、私が長らくお付き合いさせていただいた方が、今年1月頃にお亡くなりになられました。私としてもつらい経験の中で知り合った方であり、知り合った背景を口外した事がほぼなく、この執筆の機会も重なり何かの機会であると考え記載させていただきます。

 中学時代のお話しです。私は中学生の頃は到底ここでお話しすることが恥ずかしい私生活を過ごしてまいりました。夜は毎日のように出歩き、友人宅や街中で屯して時間を過ごしておりました。
 そのような生活の中で、他校の同年の彼女ができました。髪の毛はロングで茶髪、制服はブレザーで、スカートは短く、その時代に見合った風貌であり“やんちゃ”が表れておりました。

 当時は連絡を容易にとることができない時代でした。携帯電話は高嶺の存在であり、ポケットベルは音だけのものから、数字が送れるようになり画期的なサービスが出てきたと感心しておりました。今では、携帯電話やスマートフォンなしでは過ごせない当たり前の存在になり、メールやLINEなど、情報がやり取りできるツールが沢山あるため、その時代に懐かしさを覚えつつ反面不便で、もうこの便利さなしでは生きていけないとつくづく感じます。
 その時代の最中、ポケベルも持つことができず、いつも彼女への連絡は自宅の電話で取り合い、長電話をして、親にこっぴどく叱られたものでした。

 そのような時代で彼女と出会い夜通し街に繰り出す日々が続きました。
 そんな中いつも通り私は友人と街で屯していると、友人のポケベルが鳴りました。電話番号のみ映し出されている為、友人は連絡をしました。
 その友人は彼女とも友達であり、私が外出中連絡を取ることができないことを知って、連絡を取り合ってくれるうちの一人でした。
 その友人がその連絡先に電話をかけて帰ってきたときの表情は今でも忘れられません。

 戻ってきた友人が私にこう言いました。「この連絡先に電話をしてくれ」。理由を聞いたが、早く電話するように“せかされる”だけでした。
 私はわけもわからずその番号に連絡しました。その連絡先の人物は彼女の友人でその友人から信じられない事実を聞かされました。
  「洋子(仮名)が亡くなった」。
 信じられないという感情よりも、くだらない冗談だと、ふと思いましたが、電話の先ではすすり泣く声で、到底冗談を言っているようには思えず居場所を聞きだし、平静さを失いながらも病院に向かいました。
 そこには彼女の友人数名が先に来ており、その友人達になぜこのようなことになったのか? 聞きました。

 原因は交通事故でした。

 その状況を聞き愕然としていると、彼女の祖父が病院のロビーに来て、今日はどうしようもないから引き取るようにと言われましたが、彼女に会えないどころか、状況も呑み込めてないままの状態であった為、彼女の祖父に喰ってかかりました。
 しかし、彼女の祖父は数分何も言わず、「今日は何もできないから引き取ってくれ」と一言だけ告げ院内に戻っていきました。

 葬儀も過ぎ数日経過したときのこと、自宅に電話がありました。それは彼女の祖父からのものでした。家に来てほしいということだけ告げられ、その翌日彼女の自宅に向かいました。何の話かも分からず彼女の自宅に訪れ、不安で緊張していたことを覚えております。

 自宅に入り、その祖父から彼女の生まれたときのことから話が始まり、幼稚園、小中学校の出来事や家族の想いなど様々な話を伺いました。家族を亡くすということと向きあうことの辛さ、悲しさ、今まで当たり前のようにそこにいた存在が消えてしまう喪失感などがあり、家族としても、まだ受け止められる感情にないことを知らされました。そして、病院で私が喰ってかかり、説明ができなかったことについて「大変申し訳なかった、家族のことをこれだけ深く想ってくれている方に対して何の説明もできなかったことが恥ずかしい」と詫びられ戸惑いました。喰ってかかったにも関わらず、想いを平等に受け止める事ができなかった自分が、恥じるべきだというのです。

 本当に恥ずかしくなりました。私よりも到底受け入れがたい状況で家族の一員を失くしながら、心情も理解せず、自分の思いが伝わらない事だけで、相手を気遣えなかった。
 状況が状況の為、平静さを保ち説明ができる方は、なかなかおられないと思いますが、相手の立場に立ってどれだけ心情を理解することができるか? その思いをどれだけ考え、吸い取ってあげられるか?を考えさせられました。
 しかし簡単にできる事ではないです。その為日々意識し、様々な状況下でそのような心情を理解しつつ、相手の立場に立ち、様々な知見で物事を判断することが重要であると考えます。
 このような考えに至ったのも、彼女の死と、その家族のつながりからその大切な想いを伝えていただいたことで感じたものであり、今私の考え方の一部になっております。

・さまざまな経験をもとに

 私はシニアの方々から主に“情”を学ぶ機会が多かったように思えます。その情を伝えられる方々が経験をもとに語り、説得力と言いましょうか、こちら側としてはスムーズに呑み込め理解できるのです。経験が豊富なためそれを活かしシニアだからこそ若手の心に触れられ、伝えていくことで若手の育成につながることになるのではないでしょうか?
 伝統を受け継ぎ、それをまた伝えていかなければならないものは様々ありますが”情”と言う心の問題についても、伝統は必要であると感じており、それを受け継いだ側も自分なりの経験と言うエッセンスを加え、後世に継承していかなければならないとつくづく感じております。昔のものを今の時代の人間の感性や知性などで様々な製品やサービスなどにも考えを転嫁し、より良い生活や人に喜ばれる商品を作り、提供していきたいと考えております。その為、今後もシニアの方々に対しては、より多く若手との多くのコミュニケーションを望むところであります。

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